クラゲ

昨日は、広松さんのレセプションへ。森さんとも久しぶりに会うことができてゆっくり…のはずが、そういうわけにはいかず。つぐみの暴れ具合?が気になり、早々に退出して近くのプールヴーにて夕飯を。ここでもつぐみは大暴れ… だったけど、スタッフのみなさんがやさしくって一緒に遊んでくれたので、気兼ねなく過ごすことができた。いやーほんと子連れだとお店を選ぶ。でもこういう時期もあっという間なんやろなぁと思うと、そう悪いものでもない、ような気もする。

大学は後期が始まり、ぼくが担当する講義「地域文化デザイン論」も3回目を終えた。90分を毎週、計15回こなすことの大変さを痛感している。自分の哲学を整理するだけでなく、学生へ分かりやすく伝えるために思索する。その思索が知識の定着を促す一方で、自分の哲学に学術的な妥当性を見出し、かつ他者へも理解を求めるのには高いハードルがある。

演習であれば、その場での振る舞いに委ねられるが、講義はそうもいかない。来年からは教育学部でも講義を持つことになりそうだ。2年かな。2年経てばリズムが掴めるかもしれない。それまでは準備に日々追い詰めていくことになりそうだ。

さて、大学院入試の季節ということもあり、ぼくが教えている内容の問い合わせが多い。なので、これを機会にざっと紹介しておこうと思う。



前期は、PTLの他に「感性価値クリエーション概論」を担当した。これは「感性価値クリエーションコース」の担当教員がリレー式に2コマずつ担当するもの。

ぼくは「地域文化デザインと感性価値クリエーション」を担当。自分の思想と携わってきた仕事・活動を紹介し、なぜぼくが「まちづくり」あるいは「地域文化デザイン」という切り口にこだわってきたのか、について話をした。

「まちづくり」はwikipediaで見てみるとバズワードとなっている。つまり、学術的に定義しにくい多様な意味で用いられているということだ。「まちづくり」が多様な解釈に支えられるのには、歴史的に必然がある。そして、それは専門家とエンドユーザー(住民)との関係、そして学術的な領域相互の関係という点において、大きな可能性でもある。そこらへんについても触れた。

2コマ目は、特に杖立での仕事を紹介し、その中で実践してきた「まちづくり」とは何か、について説明をした。そして「地域文化デザイン」という言葉を使うと、どう捉えられるのかについて話をした。

地域文化デザインのポイントは2つある。まずひとつめは、まちづくりに係る多様な分野に対して「文化」という切り口で共通性を認識する所作だ。

一般的には、「文化事業」と言われると「芸術文化(アート)事業」を連想する人が多い。それは縦割行政に由来する面もある。つまり、文化庁管轄の領域を「文化」の範疇だと捉えてしまう態度による。

しかし実際は、あらゆる分野に少なからず「文化」が関与している。環境活動や平和活動、経済、福祉、教育、そして全ての(狭義の)デザイン等、あらゆる社会的営みが、その当事者や地域の「文化的素養(資源・価値観・美意識等)」に影響を受けた営みである。

環境が大切だと思う気持ちも、経済を優先してしまう気持ちも、その基礎には当事者の「文化」が横たわり、それが個別の「活動」や「仕事」というアウトプットに収束しているだけなのだ。

「文化ではなく福祉が大事だから」とか、そういう発想は、ある意味矛盾を抱えている。ある面において、福祉を支えているのは文化的な営みであり、また、その発想自体も文化に強く依存しているのだ。例えばスウェーデンの文化政策を歴史的に紐解くと、福祉国家政策の一部として機能していることも明らかになる。

「文化」に関係がないと思われている分野の文化性を認識してもらい、かつ文化のシンボルとして機能してしまう「芸術文化(アート)」にも他の分野との近接を見出してもらう(それは一方で「文化の違い」に鋭敏になることでもある)。そういう視点に立ち、あらゆる社会活動を文化現象として関係性を見出していく視座がポイントとなる。

もう1つのポイントは、その哲学の基に社会へ向けて実践をしていくこと。つまり、広義の「デザイン」をしていくこと。

異分野との協働という観点から言うと「コラボレーション」という言葉がよく使われる。ぼくが元々勉強していた「景観工学」の分野でも、この言葉が流行った時期があった。コラボレーションとは「専門性の違い」を前提としたものであるが、地域文化デザインでは、協働の前に専門性の領域を疑う姿勢が肝要となる。

その姿勢が、専門性の根っこにある「文化性」と呼べるもの、当事者の次元では、技術や知識を支える「人間性」もしくは「感性」を引き出し、制度に左右されない持続可能な文化を定着させていく。その際、自らの専門性は変容することもあるし、デザインの形式は単一化しない。

さて、後期の「地域文化デザイン論」は…と続けようと思ったけど、長くなるんでまた今度。履修登録の〆切までには更新します。(事務的)


写真は夏の想い出に。クラゲに逃げ惑うアタモたち。

※追記:後半が分かりにくかったので若干修正しました。2009.10.25
いないいない…

29日に東京へ。コクヨのショールームで開催された某ミーティングに出席した後、30日に戻り、1日はMDCにて後期の演習の打ち合わせ。昨日、再び東京へ。ナガオカさん・松添さんと打ち合わせをして一泊。さっき福岡に戻ってきた。ほんとは東京のほかのみなさんにも会いたかったんだけど、今回はばたばただったので。また次回。

で、(ほんとに)おくればせながら… 先日の説明会、来てくださった方々ありがとうございました。

予想に反して60人(!)の参加者。このブログを見て来られた方もいて、何と関西・関東からわざわざ来られた方も。在校生も数名来ていて。話される先生の言葉を一所懸命メモる学生を横目に、司会をさせて頂いた。

学生は、想像以上に先生の言葉と行動に耳を傾ける。教員になって、その事実に気付かされることが多々ある。
「あの時先生が言った〜とは、こういうことですか?」とか「先生の行動の意味が分かりました」とか、そういう言葉をかけられることがよくある。その中には「そんなこと言ったっけ?」と思えるものもあり。無自覚な言葉や行動が、学生の琴線に触れることが多い事実を痛感している。

無自覚な言葉や行動がいかに現実を定義づけているか。おそらく「感性」を切り口にするとは、それに気づき、思索し、他人と自分にとっての現実を、繋げていくことだと思う。

たとえば、今あなたが見ているのは、パソコンの画面だけではない。あなたの最も近い位置に鼻の頭がぼやけて在りはしないだろうか。メガネをかけている人は、そのフレームが確かに見えているはずだ。ほおづえをついている人は、手首から肘への連なりも見えるだろう。前髪のちらつきに気づく人も、いるかもしれない。

自分を支配している現実とはそういう危ういものだ。あなたのメガネは確かに在るが、つい先程までは確かになかった。それもあなたにだけ、存在しなかったのだ。

「感性」を学ぶ理由があるとするなら、危うく儚い現実への「気づき」を自覚することに始まり、その「気づき」を受け入れることにある。その結果、他人と、つまり社会と繋がることができる。(かもしれない)

デザインの手がかりは、「気づき」から得られた違和感である。自らの違和感=感性を信じることができると、必然的に、自然と、デザインが生まれてくる。今求められているデザインの「強度」とは、そういうものだと思う。

入試は今月17日。受験生のみなさん、がんばってください。そして一緒に、現実を思索していきましょう。



明日の情熱大陸は、(昔の)ライバル寺本くん。10日のグラン・ジュテは、気づきに正直な愛梨さん。明日はこれも観てほしい。そうそう、明日は北九州国際ビエンナーレの福岡説明会もある。福岡の方は、こちらもぜひ。

写真は、隠れているつもりのつぐみ。子どもが「いないいないばぁ」が好きな理由がなんとなく分かってきた。見つけて欲しいから、隠れるのだ …あ、今Mさんから仲秋の名月詩が届いた。BGMにかえて。

今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ

春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿

ああ蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先ず腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ

今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ

井伏鱒二