---

 きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべてじぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と。
 下駄がいけなかったのだろうか。子供のころ、通り雨に濡れたり、水たまりの泥がはねたりすると、足にハの字形の赤い模様がついてしまった。また、石ころにつっかけては鼻緒を切ったり歯がかけたりした小さな塗り下駄のせいで、じぶんの足は、完璧な靴に包まれる資格をうしなってしまったのだろうか。
 あまり私がよくころぶので、おとなたちは、初物のソラマメみたいな、右と左がはっきりしない、浅くてぺたんこのゴム靴を買ってくれたこともあった。これならもう、子ネコに狙われた毛糸の玉みたいに、やたらころころころばなくなるだろう。
 だが、おとなたちの思惑は外れた。水色のゴム靴には、木綿の裏地がついているのだが、それが歩いているうちにすこしずつ剥がれて、足の下でくるくると巻いてしまったから、彼らが後ろから歩いてくる子供のことをふと思い出してふりかえると、私はとうのむかしに脱いでしまった靴を、片方ずつ両手にぶらさげて歩いていた。靴底がごろごろするくらいなら、はだしのほうがよかった。

― 須賀敦子「ユルスナールの靴」冒頭より引用

---

なんと美しい文章だろう。やさしく、そして厳しい。今日一日はもう終わっていい、そう思えた。

本来、日常とは、子どもが埋もれていて、おとなが忘れているものだ。

日常を追想し表現できるのは、子どもより少しばかり長く生きているおとなの特権。でも、その特権に忠実に寄り添えるのは、ごくごく僅かなおとなしかいない。須賀敦子という人は、そのうちのひとりなんだろう。

今日の良きこと、悪しきこと。日常は、かような「まとめ」ではなく、良きとも悪しきとも分別できない生暖かい機微にこそある。灰皿の周囲に落ちこぼれたかすかな灰だったり、傘をすり抜け、ときおり肩をぬらす冷たいしずくだったり。それら日常の積み重ねをまとめあげる営為にぼくらが支配されていることを、その僅かなおとなたちは知っている。

ほら動かなきゃとか、不安でたまらないだろう?とか。千里先の知識を、日常に置換する言葉たちが息苦しい。その息苦しさは同時に、自身の葛藤と相まっていることは明らかだ。日常を丁寧に追想し、その機微に身を委ねられるような。そんなおとなに、果たしてぼくはなれるのだろうか。