trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

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昨日は祖母の一周忌だった。熊本に親戚がせい揃い。祖母のひ孫にあたる子らが、食事をするぼくらの周囲を嬉々として駆け回る。その姿は、ぼくらの幼い時分を思い起こさせた。

祖母が亡くなってしばらくして、遺品の中から短歌を綴ったノートが見つかった。ぼくと兄について綴られたものだろうと、母が教えてくれた。

 

転校の 孫は学びやに 馴れたるか 校庭の樹木の 数を我に教うる

幼稚園 移れる孫は 不安げに 出で行く姿 気遣い送る

宿題の 時間計ってと 頼む孫の 澄める瞳に 吾のうつりて

吾が癖を 見事にまねる 末孫の しぐさいとしく 顔に頬寄す

楽しげに 手のりいんこを 肩にのせ 孫等は階段 かろやかに登ぼる

霜柱 ふんで行くよと 登校の 孫は紅き顔して 駈け出て行く …

 

ぼくが5歳で兄が7歳の頃、今の実家に引っ越してきた。「転校」「幼稚園 移れる孫は」とあるので、その時から数年にわたって綴られたもののようだ。祖母が記してくれたような「不安な感触」が、胸のずっと奥の方に、確かに残っている。

幼い頃の日常はすこぶるドラマティックであり、やり場がない程に切実だ。でも大人からみると、それは、とるにたらない刹那であったりする。そんなささいな瞬間に、祖母は丁寧に歩調を合わせてくれていた。

親になってはじめて分かることがある、そう周囲によく聞かされてきた。

それが何なのか、ぼくはまだ、ハッキリしない。でもその真意の矛先は、幼い頃のぼくらと同じ「長い時間」を過ごしてくれた大人たちを向いていることは、間違いない。

30年という月日が経ち、ぼくはいつのまにか、祖母と同じまなざしを獲得した。いつ獲得したのかは分からない。いつのまにか獲得し、そして時折気づくものなのだろう。そうして時間は過ぎていき、その傍でつぐみもまた、長い時間を重ねていく。

写真は、1年前のつぐみ。

June 27, 2010

ここ数日、つぐみがとてもぐずっていた。昨晩は1時すぎても寝ない。絵本やおもちゃを何かと理由をつけて、かたづけない。寝たと思ったら4時すぎに起きて、とにかくだだをこねられた。

彼女はまだ言葉がままならない。ぐずって放つ言葉は、聞きとれない。だから、わがままだと思った。しつけが足りないのかと思った。分かりっこないと分かってながら、彼女に理由を問うてもみた。

終日一緒にいるアタモはさらに手を焼いていた。アタモへの申し訳ない気持ちも、彼女にあずけていた気がする。そして、仕事はすすまない。朝までにやらねばならない。どうしたもんかとソファで一緒に横になり、朝を迎えた。

夕方、アタモからメールが入った。つぐみがとある病気だとわかったと。

思い返される彼女の行動。以前、風邪をひいた時も同じだった。同じように彼女はぐずっていた。おとなですら、身体がつらいときはやさしくなれない。にもかかわらず、ぼくは、それを彼女の責任にすり替えてしまった。

反省したはずだった。でも、またやってしまった。冷静に思い返してみると、その時だけだ。彼女が執拗にぐずるのは、身体の具合がおかしい時だけなのだ。

アタモに電話した。つぐみの無邪気な声がうしろで聞こえる。電話を代わってもらった。あやまりたかった。アタモが「パパがごめんって」とつぐみに電話を渡す。つぐみが電話に出た。「パパ、ごめんね」と彼女は言った。

「パパがごめんって」を「パパにごめんって」と、勘違いしたのだろう。逆にあやまられてしまった。不意をつかれた。まいった。涙が出てしまった。

帰宅した。彼女は寝ている。いつものように半開きの口で、いつものように大きないびきをかいている。彼女は、決してぼくを拒絶しない。その限りない透明さは、奇蹟としか言いようがない。

 

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※追記:たいした病気ではありません。もう元気です!ご心配してくださったみなさん、ありがとうございました!
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いわき市内には、4月6日時点で47箇所の避難所があり、2806名の方が避難している。日を追う毎に少しずつ減少はしている。

今回は、様々な世代、境遇の人たちから話を伺った。その中で住民のみなさんが特に強く主張されたのは、災害初期の頃の行政の対応だった。客観的に見ても、決してスムーズとは言えないように思えた。特に地震が起こった直後の3日間の混乱は、察するに余りある…

緊急時の対応は本当に難しい。

よかれと思ってとられた素早い些細な行動が、想定外の大きな混乱を生み出すことがある。そしてその経験は、その後は「躊躇」としてつきまとう。いわき市でも少なからずそういう状況が見られたように思う。

当たり前のことだが、緊急時とは、その場で対応する時間が限りなく短いということだ。つまり、平常時にいかに緊急時を想定しておくか、その準備、仕組み(システム)作りが肝要となる。危機管理である。

そのシステムがないと、緊急時の対応は限りなく「担当者の人的資質」に依存してしまう。よって、批判の矛先もそこに収束してしまいがちになる。悪循環になってしまう。
いわき市では、災害初期に後手に回った対応を、払拭しようと頑張っている職員の方々がいらっしゃる。そして、それを応援する市民の方々がいらっしゃる。

今できることは、それを受けて、これから何をすべきか見極めること。そして、今後の災害時の対応について参考できることを、検証・整理することだと考えたい。

実は、福岡市中心部は玄海原発の50km圏内にある。もし玄海原発で事故が起こった際は、いわき市と福岡市は、非常に似た状況となる。この件について気づいている人は少ないのではなかろうか。

つまり、福岡市がいわき市から学べる点はとても多い。そういう意味でも、災害発生時から現在に至るいわき市の状況を踏まえて、私見を述べておきたい。

まずは、救援物資について。

 

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いわき市外から送られた救援物資は、市街地に程近い競輪場に集約されており、そこを基点に、自衛隊が各避難所に配布している。数日前からは、佐川急便も配送に協力していると聞いた。

地元ではこの救援物資について話題になっていた。競輪場にたくさんの救援物資が備蓄されているが、スムーズに各避難所に行き届いていないのではないか、そして余ってしまうのではないか…という危惧である。youtubeには映像が投稿され、行政も対応に追われた。

ぼくが見聞きした限り、特に初期の頃、物資の配給に遅れが生じたのは確かなようだ。

しかし、避難所の必要物資のニーズと支援体制は変化し続けている。現状では、市民やNPO等の協力、そして行政職員の努力により、最低限必要な物資については避難所に十分に行き届いているようである。

初期に遅れが生じた理由は、いくつかある。

まず、市のホームページ上に災害対策本部の電話番号を掲載してしまったために、唯一の通信手段である電話が混線し、うまく繋がらない状況があったという。さらに、(とあることが原因で)ガソリン不足に陥り、緊急車両や公用車が物資輸送に使用できなかったことも理由のひとつである。

そして、物資の募集から配布に至るまでの、「行政の決裁システム」に起因する遅延が考えられる。

ぼくが話を聞いた限りにおいて、いわき市の緊急対応は、平常時の決裁システムの延長上にあったように思われた。物資を募集し、受け取り、避難所に配布する一連のプロセスの中に、担当部署の決裁が複数介入していた。

救援物資は制度上「市の財産」となる。災害初期の混乱状況の中、救援物資を「財産」として取扱い決裁するアナログな手続きが、少なからずタイムラグを発生させたように思う。

平常時と緊急時では、取り組むべき事柄のプライオリティが異なり、かつ、スピードが要求される。少なくとも、双方の決裁システムは、はっきりと切り分ける必要がある。

緊急時では、現場に近い人たちの裁量に幅を持たせ、自律的に動いていくシステムが望ましい。この時の現場とは、避難所と本部窓口、そして広域のいわき市の場合は、旧市町村の支所がそれにあたるだろう。

現場で個別に生じるタイムラグは、全体として、プライオリティが低い(大した影響とならない)事柄である。素早く物資を支給し、市民の命を守り、安心感を与えること以上にプライオリティが高い事柄はない。

全体を統括する本部が機能しづらくなることを想定し、現場個別の裁量で物事が進む方が、市域全体としての損害や混乱は少ない。

つまり、行政の性質である『管轄エリアに対して公平性を保とうとする姿勢』と『正確さ・確実性を優先した決裁システム(担当部署の責任者が決裁しないと、市として行動できないこと)』をいかに攻略していくかを、日頃から念頭に置く必要はある。

一方、いわき市では、市主導の物資配給が遅延する中、そのタイムラグを埋めるカタチで避難所周囲の住民とNPOの支援が有効に機能していた。

物資については、行政とNPOの2つの経路で集められ、現場へと届けられていたのだ。ただし、その双方は連携はしていない。NPOはNPOの判断で物資を集め、避難所に供給を行っていた。今は、避難所側が自ら物資を取りに行っている。

災害時の支援活動に馴れている福島県外のNPOが、このNPOを窓口に現地に入り、初期の頃に適切な支援活動を実践していたケースが見られた。

現場に近い行政職員の方の中には、臨機応変にNPOと連携されている方もいらっしゃった。市の物資配給の遅れが確認された際に、NPOに物資を依頼し、無事に事なきを得たケースもある。

つまり、緊急時に連携するNPO等(民間機関)と、平常時から協働の体制を整えておくのは賢明な方法かもしれない。行政が得意とするところ、NPO等の民間機関が得意とするところを見極め、緊急時に備えるのだ。

その一方で、先述したように、可能な限り行政内部で緊急時の柔軟なシステムを構築することは必須だと思う。その上で、緊急時にNPOが加われば、さらにNPOが活躍できる局面が出てくるはずだ。

最低限の物資供給が行政主導で効率的に実現できれば、医療や福祉、心理的なケア等の民間の得意な領域にてマンパワーが行き届く結果になる。緊急時において、行政のみの対応では、困難と人員不足がつきまとう。

初期段階からNPOとの協働体制で臨むことができれば、心身の疲労に起因する、二次的な被害を最低限に抑えられるだろう。初期の混乱が、後々の心理面に与える影響は大きい。

そして、これから集める救援物資については、物資を送ってもらう前に、必ず「種類」と「届く日時」を確認するべきだと思う。現在の備蓄量と消費量を勘案すると、初期の頃と同じように市外にアナウンスしていたら、きっと余ってしまう。

加えて、募集する量の判断材料は「定性的な推測」ではなく「定量的な現場のニーズ」であるべきだろう。避難所の要望リストを整理・編集し、募集告知へと反映できれば、市外の応援しようとする人たちの善意は、活かされる。

もちろんこれは、初期の対応とは異なる。災害初期に必要な物資は概ね予想できる。その物資は、行政の裁量で募集・配給し、次のフェーズで、効率的に現場のニーズを拾った方がいい。

緊急時に以上のようなきめ細やかな対応をするためには、言わずもがな、時間と人手もかかる。今回のようにアナログで対応していたら難しいと思う。ICTツールを積極的に活用した方がいいと思う。今回の地震発生時は、電話が繋がらないがネットは繋がる、という状況があった。

具体的には、平常時に携帯で(もちろんPCでも)閲覧できる掲示板等で、各避難所・各支所毎にニーズを拾うシステムを構築しておくといい。その内容は、市民(住民)以外が閲覧できない方が混乱しない。そして、市のホームページの更新も、簡易的に複数人が対応できるようにした方がいい。

twitterは、使い手にリテラシーを要求するツールなので、より多くの人が慣れているシンプルな掲示板の方がいいだろう。住民が閲覧する媒体と、住民以外が閲覧できる媒体を、意識しながら使い分けた方がいい。

もちろん、電話とラジオ(いわきの場合は、コミュニティFM)、そしてFAXは併せて活用する。ICTでの双方向のやりとりが発生する前に、不安を取り除くためにも、確実に情報を発信する必要がある。

災害はいつ起こるか分からない。しかし、現場の混乱とストレスは、その初期状態に起こってしまう。以上のようなシステムが事前に用意されるだけで、後々の混乱や行政職員のストレスも限りなく少なくなるのではなかろうか。

現場で気づいたことを、もうひとつ。

避難所を見て回ると、備蓄されている物資の種類が明らかに違っていた。よくよく聞いてみると、避難所(自治区、集落)の住民のリーダーの存在が、避難所の在り方に大きな影響を与えていた。

避難所のリーダーが、NPO等に今必要なものを進言・調整し、NPOは必要とされるものを早急に送り届けていたようだ。調味料や野菜等の物資が見られ、分担して自炊するシステムまで構築されていた。被災者にはそれぞれの役割が振り分けられ、暖かい汁物が食べられ、少なからずリラックスできる雰囲気が漂っていた。

その一方で、賞味期限が切れそうな菓子パン等が山積みになっている避難所も散見した。高齢者の多いところは、大量の菓子パンを消費しきれずにいて、その不満の矛先は、物資配給に対する行政へと向けられていた。

避難所でのリーダーは、平常時での集落の区長や、婦人会等の住民団体のリーダー、避難場所の小中学校の校長先生等、様々であった。つまり、平常時の地区での自治機能が、緊急時で大きな役割を果たしていたのだ。

避難所は、災害の状況に応じて設定される。平常時の自治コミュニティがそのまま機能するとは限らない。つまり、リーダー不在の避難所が生まれるのは必然である。

よって、避難所のリーダーは、行政主導で決める仕組みが必要だろう。

中には互いに初めて顔を合わせるようなコミュニティもある。そんな中でリーダーを決め、コミュニティとしてまとめていくのは、簡単なことではない。各コミュニティが自律的な行動ができるよう、行政が指南した方がいい。

以上のように、緊急時のリーダーを想定し、また、各コミュニティをマネジメントする準備は、平常時の自治機能と人材発掘に有効に機能する。これにはぜひ取り組んだ方がいい。

そして、これからのいわき市への支援について。

各避難所には、皆さんの努力により、必要最低限度の物資は、潤沢にあるようだ。テレビについてはNHKが提供したという。

今後、(ボランティアも含め)支援で特に必要になってくるのは、まず、避難所毎に物資の格差があることを前提に、全体像を把握することだろう。各避難所から上がってくる物資の要望リストを整理すれば、可能だと思う。行政ができないのであれば、地元のボランティアで試みてもいいと思う。

そして、ライフラインが未だに復旧していなかったり周囲に商店が存在しなかったりする「個別の民家」に、残りの物資を効率的に配布する必要がある。また、避難所を離れる方に保存食を支給してもいいだろう。

福島第一原発の30km圏内で、移動にストレッチャーが必要な「自力移動」が困難な住民は、いわき市には10名いるという(4月4日現在)。そういう方達をはじめとした、動けない方達を、より小規模なボランティアのユニットでフォローする必要がある。

もうすぐ、現場での復旧作業が始まる。その際には、各民家での作業の手伝いも必要になる。

これからは、支援対象がさらに個別化していく方向に変化していく。そのためにも、市本部よりも、各避難所・各支所の裁量を大きくし、そこを基点にした方が行き届いた支援は可能だ。

避難所については、持続的な「炊き出し」とお風呂の提供、さらに日常的に接しながらの心理的なケアの仕組みと、リラックスできる空間の設えが重要となる。必要な物資は、食料品というより、自炊に必要な設備と考えられる。

放射線の問題もあり、避難所生活が長期化する恐れがある。多くの避難所について、継続的に「炊き出し」のボランティア支援を期待するのは少々難しいだろう。地元の有志の方々が全体を見渡しながら継続性を意識するのは、大切だと思う。

特にお風呂の存在は、被災者に大きな喜びを与えている。避難所周囲のお宅がお風呂を貸してくださっている例もあり、そのことを教えてくださった方の目には、涙が浮かんでいた。ある避難所では、自衛隊が臨時のお風呂を作り、少しずつしか入れないけどね…と、とてもうれしそうに語ってくれた。

被災者の、現状の大きな疲労の要因は、「災害の終わる時期(特に原発)」「自宅に帰れる時期(通常の住宅に入居できる時期)」「補償内容」の情報が確定しないこと、道筋が立っていないことに起因している。物資の不足ではない。この件に真摯に対応できさえすれば、避難者の今の不安は、少なくなっていくだろう。国と自治体は、より具体的に、分かりやすく、早めに情報を提供する必要がある。

特に放射線については、測定エリアを細分化し、持続的に測量する。測定は、市民や医療関係者に任せればいい。そして、随時測定量を公表しながら、補償の方針をできる限り早くフィックスすることが望まれている。曖昧な安心ではなく、市民それぞれが判断できる材料を、確実に市民へ届ける必要がある。

特に医療・福祉面では、避難所だけでなく、自宅にいらっしゃる方たちに対してのケアも必要。行政―避難所の体制が効率的に動き出しさえすれば、住民有志による、周囲へのより細やかな配慮へと必ずつながるはずである。

これらとあわせて、住宅提供の施策も進めなくてはならない。

昨日の市長会見では、住宅全壊した方々を対象に、雇用促進住宅と民間の借り上げ住宅のみで、一時的な住居を確保できるという。その数は約2400戸を見込んでるという。

つまり、現状では仮設住宅を建設せずに、既存の住宅で全てフォローできるということだ。建設期間やコストを勘案すると、いわき市にとっては大きな希望だと思う。

この点については、後日時間があれば、書いてみたい。過疎地や空き屋等の存在が、緊急時に有効に機能するという事例である。

一昨日の夜。いわきのデザイナーの人たちと飲むことができた。充実した貴重な時間だった。おそらく彼ら彼女らが、今後のいわきを創っていく。

彼らが教えてくれた、地震の瞬間。あの3日間。まちの静けさ。別れ。葛藤。迷い。怒り。非日常が日常に変わったと気づいた時。覚悟。出逢い。希望。

彼らは、この短期間で濃密な感情と戦ってきた。そして未だに継続する余震、放射線(放射性物質)という見えない敵と、見えない終息に向かって付き合っていかねばならない。

今回、出会った人たちは、移住ではなく、家に帰りたいと力強く答えた方がほとんどだった。特に原発から30km圏内に位置する久之浜地区のみなさんは、自分たちのまちに、強い愛着と誇りを持ってらっしゃった。

「今までの生活は、決して贅沢なものではなかった。あなたと同じだったと思う。ささやかで普通の幸せがあった。それが一瞬で消えたのです。信じられますか?」

そう語ってくださった方の切実な眼差しが、いつまでも脳裏から離れない。ぼくらは、たまたま被災しなかった現実を、しっかり胸に留めるべきだと思う。