trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

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桐生市・小6の子がいじめで自殺した事件が痛々しい…。繰り返されるいじめに係る悲劇と、何ら変わらないメディア・行政・学校の反応を目の当たりにすると、学校で取り組むべき事柄のプライオリティが、根本的にミスリードされているように感じてしまう。

「教育現場でのいじめ」という文脈だと、「いじめをしないように教えなくてはいけない」と帰結する。「いじめがない健全な大人の社会を目指して、いじめをする子どもたちを教育する」という暗黙の目標像。そしてその「教育的責任」を追及されてしまう学校と教育委(および文科省)は「いじめの有無」や「いじめの防止」という形式にこだわり続ける。

一方、メディアは「教育的責任」とその原因を突き止めるストーリーを見立て、過度な演出で視聴者の気持ちを牽引する。生きるための縁がクリアだった自身の子ども時代と比較して、今の子どもたちを責め立てる筋違いの輩さえいる。

自分の子どもの頃を思い返してほしい。

当時自分を支配していたキモチは、「何を(いかに)学ぶか」ではなく「いかに過ごすか」ではなかっただろうか。友人をはじめとした周囲の人たちとの関係に依存する、席替えやクラス替えや、ランドセルの色や先生の顔色や、嫌いな子や好きな子の振る舞いや、成績表とシンクロする親の表情や、家と学校とをつなぐ通学路が…ぼくらの「日々の感情」を支配していたはずだ。

その根拠は、文科省が教師たちに教育すべしとする事柄だろうか?

学校は確かに「教育現場」である。しかしそれ以前に、子どもたちにとって「生活の現場」である。自身を受け容れてもらい、いかに孤独を解消するかという、大人が「社会」と呼ぶに相当する場である。それも大人が「取るに足らない」と思えることで、簡単にキモチが反転してしまうような。とてつもなく繊細で、情熱的な社会である。

だとするなら、席替えにしろ(子どもの気持ちを問う)アンケートにしろ、それはコミュニケーションと場(空間)の有り様を踏まえた、高いスキルが要請されるはずだ。そして主題となるのは「いじめの有無」ではない。「いじめとのつき合い方」だ。

つまり「他人や自分のキモチといかに付き合うか」に係る「生活社会」を生き抜くための技術、それも教師と生徒(児童)の関係に固執せずに、子どもの周囲のあらゆる環境条件を踏まえて解決に導く技術が、学校で働く大人たちに要求される、最もプライオリティが高いスキルだろう。

例えばあなたが今いじめにあったとする。その時に「それはいじめだ、いじめじゃない」「お前はいじめをやったのか?」と正す周囲を見てどう思うだろう。そんなことはどうでもいいはずだ。どうでもいいから今の状況を切り抜ける方法を教えてくれと、そう強く願うはずだ。

信頼すべきは、いじめの有無の事実ではなく、「いじめだと感じる当人の事実」だ。そうして、つらい思いを抱いている子どもの感情を信じることだ。その諒解の元に、事実から逃れる術が必要なのだ。今すぐにでも逃げたくて逃げたくてたまらない、切なる衝動をどうにかしてほしいのだ。

「いじめだと感じる当人の事実」が、子どもが発する言葉と異なる原因によることもあるだろう。しかしその事実ですら、学校を含めた家庭や記憶や地域という「生活社会」の考察でしか、導き出せない。

分かりやすい教育の成果(つまり学業の成績)が、子どもたちの「日々の感情」に影響する小中学校もあるだろう。しかしそれは、あくまで「生活」の俎上にしかない。成績の違いの結果生じる「生活の中の孤独」に対する処方が必要になるだけだ。

子どもたちは、なぜ勉強をするのか。義務教育という「教育内容の一般性が担保されるべき現状」である限り、成績を何かの手段、つまり将来も含めた「人とのつき合い」の手段と捉えているケースがほとんどだろう。えらくなりたい、ほめられたい、認められたい、見返してやりたい…。誰かと自分とをつなげる記号のひとつが、成績なのだ。

人様の子どもを預かり、多様で濃密な愛情を注ぐ保護者と付き合わなければいけない現代の「生活の現場」、特に小中学校には、教師以外の第三者が必ず必要だろう。それはスクールカウンセラーでは足りない。教育内容に「ゆとりを持たせる」ことでもない。必要なのは、学校以外の生活との関連を見据えた、限りなく生活社会に寄り添うコミュニケーションのプロだ。

日常的なコミュニケーションへの配慮には、時間と場への丁寧なまなざしを要する。家庭と学校のつながりを鑑みて、じっくり見聴きする時間が必須だ。それを教師の役割とされても酷だろう。ただですら膨大な業務にさらに負担が増えるか「教育現場」の文脈で「アンチゆとり教育」などのベクトルと戦わざるを得ないのがオチだ。「教師と生徒」と併走しながら、日常的な時間と場に気を配る、第三者が必要なのだ。

あるいは、こう考えてもいい。生徒が30人いて「教育すべき」教師が1人いる。ではなく、31人のチームで生活している、と捉える。2人のいじめっこがいたとしたら、それに付き合う人間は教師1人ではない。29人だ。20人が恐れをなしていても、9人の同志がいる。子どもの日常に一番近いのは子どもたちである。彼らは彼らなりの飛び抜けたセンスを持っている。

そして、全校生徒が100人で職員が30人だとしたら、学校は130人のチームである。そして、親がいる。その親もいるだろう。いつも疑問に思う。なぜみなで協働しようとしないのか。なぜ「何ら子どもの感情に帰属しない、互いの教育的な立ち位置」を頑なに守り、遠い場所から批判し続けるのだろうか。子どもの命とは、そんなちっぽけなものだろうか。

わざわざ言うまでもないが、がんばっている教師たちはいる。信念を持った教師は、我が教育の定義の中に、ぼくの言う生活社会へのまなざしも獲得しているはずだ。そして地域側からも、様々なアクションが試みられているのはわかる。

しかしそれでもなお、「教育の文脈から外した確固たる営みを、学校は獲得しなくてはならない」と考える。いじめの問題を教育の問題として扱う限り、「ゆとり教育」をはじめとした今までの試みと同様、その本意が伝わらないまま、堅固な記号に回収されてしまう。学校の外の営みではなく、学校としての営みが、変わらなくてはならない。

いじめに遭う子どもたちは、学校の外に逃げ場が欲しいのではない。
今ここで、苦しんでいる自分と、今ここで、併走してくれるヒトを求めている。学校での孤独を、解消してほしいのだ。学校と地域との境界の融解は、その段階を経て、徐々に成立していくものである。それくらい強固な境界だ。

2年前、文科省が「スクールソーシャルワーカー活用事業」なるものをはじめた。現実的に考えると、第三者の可能性を、ぼくはこの仕組みを充実させ、拡げていくことだと感じている。人材育成を積極的にすすめ、スクールソーシャルワーカーを「各学校に必ず1人以上」は配置しなくてはいけないと思う。そして、それを活用すべき認識を、行政・学校・メディアがしっかり持った上で、子どもの「生活の現場」としての有り様を、建設的に構築していかなくてはならない。

学校には、教師以外のスペシャリストが必ず必要だ。それも、教育の文脈に回収されない「生活としての」記号を携えなくてはならない。それが最も現実的なのは、大人社会でいう「福祉分野」からの接近なのだろう。

周囲の大人たちは、「生活の現場」としての問題を、無理矢理「教育現場」の制度的文脈に当てはめている現状に意識的にならなければならない。そんな大人たちの振る舞いが、子どもたちの感情に、そして未来に歪みを与えているように思えてならない。

ぼくらも子どもたちも、同じ社会を生きている。それは、紛れもない事実であり、何より希望でなくてはならないはずだ。