ようやく21世紀の本棚がオープン。実は1年半くらい前にデザインは終わっていて。その後いろいろあって、今回オープンとなった。ちなみにトップページはぼくの部屋で私物を撮影…。今思うとああしておけばよかったとか思うけど、まぁ…。
最も悩んだところは、各レビューで表紙の画像を使うかどうか。著作権を想定すると、表紙画像を使うためには、AmazonのAPIを活用するのが賢明。でも、本はやはり実際に手にとって、近くのお店で選んでほしい。
なので、表紙画像を使わず、Googleの検索エンジンを入れ込んだ。まぁ結局Amazonがトップに来るのがほとんどだけど。その非効率な1クリックにそれなりの想いがあります。このブログでアフィリエイトを使わないのもの同様。今後も九州・沖縄のキーマンがレビューを投稿していくことでしょう。お楽しみに。
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講義の振り返り。
【3回目】地域文化デザインの5つの形式〜記号論的アプローチから〜(10/20終了)
3回目は、記号論(記号学とも言う。その違いについてはここでは詳細に触れない)を概観し、最終的に地域文化デザインにおける5つの形式を説明した。ちょっとディープな?話になるけど、ご了承を…。
地域文化デザイン(ぼくにとっての、まちづくり)において、大切な視点のひとつは、目の当たりにしている問題を構造化することだ。問題を適当に(テキトーという意味ではなく)構造化できないと、目指している成果が検討違いになる。構造化がうまい人は、(無意識であるにせよ)自分なりの方法論・思考の枠組みを体得している。
ぼくの場合、この方法論を『ロジック(論理)』と『フレームワーク』との2つに分けて捉えている。
『フレームワーク』については、近年よく知られている。それをテーマにした本やサイトも多い。ロジックツリーやマインド・マップなど、課題を取りまとめたり、アイディアを発想したりするための枠組みとして紹介されている。
しかし、『フレームワーク』は問題の切り口を固定化し、手段が目的化してしまうことがある。複数人で共有すること、そして効率的に問題を処理することに特化しているため、「可視化できるツール」として分かりやすく抽象化されているからだ。
特にまちづくりにおいては、相手にとっての「わかりやすさ」を優先すべきであり、『フレームワーク』を使って合意を形成していく局面は多い。ワークショップ等では、自分の固定観念をなるべくなくし、相手に近い立場で共感を見出さねばならない。ということはつまり、互いの公約数の「わかりやすい」枠組みに固定化されていく、ということでもある。
よって、同時に『ロジック』を携える意識が大切。「自身の思想・哲学の、論理的な枠組み」という意味にとってほしい。その人のアイデンティティは、少なからずこの『ロジック』から生じる。
今回はその『ロジック』の例として、記号論を挙げた。
「なぜ記号論なのか」というのは、そもそもぼくが興味があり、同時に接する機会に恵まれたという理由による。
実は、卒業論文は記号論的なアプローチからデザイン手法の歴史的な変化を考察したものだった。(「田北雅裕、仲間浩一『デザイン手法の通時的変移とその表出的機能のデザイン論上の位置付け』第34号 都市計画論文集 p205-210、1999.11.」に掲載されているので、興味のある人がいれば)
記号論は、特に80年代に様々な解釈が出尽くした感がある(批判もある)。現代思想という意味では、ある種古びた感?もあるが、実践を想定して文化現象を構造化するには、優れた理論だと思っている。記号論はそもそも「言語学」から派生した思想であり、「言語」という文化現象の中で最も汎用性の高い「記号」を素材にしていることも、着目するひとつの理由だ。
記号論を手がかりにする際には、以下の点さえ意識しておけば、そう間違った方向に進まないように思っている。
・人間が記号から「意味」を解釈する営みを、記号の「働き=機能」と捉えること。
・「視覚的な記号の形式(見た目)」から得られる「意味」に執着せず、記号「現象」から得られる「価値」を捉えること。
・人間同士のコミュニケーション自体も「言葉や雰囲気などの記号」を介していると捉えること。
ざっくり言うと、記号論を実践に即して解釈しなおし、社会学的観点を取り入れることである。
が、現代思想や社会学に馴染みのない人にとっては、さっぱりだと思う。講義では一応丁寧に説明したつもりだけど、ここでは省略。受講者の特権ということで…すいません。
特に記号論について勉強したい人は、まずは「池上嘉彦『記号論への招待』1984」を読むといいと思う。非常に分かりやすい本であり、ぼくも池上さんの著書に相当助けられた。
ひとつだけ例を挙げる。記号論を基本に発想すると「デザインとアートの関係」についても、ヒントが得られる。
(1)花が咲いた。
(2)ハナガサイタ。
この2つの文章のどちらが「アート的か」と聞かれれば、おそらくほとんどの人は(2)を選ぶだろう。
これはどういう理由かというと、(2)の文章が、「言葉の意味(記号内容)よりも、姿形(記号表現)を志向している」ように見えるからだ。文章の表現に重きが置かれている。この働きを、記号論では【美的機能】と言っている。
【美的機能】が強く感じられる時、世間一般では「アート」として受け入れられ(がちにな)る。正確には、アートの必要条件である。さらに、他のアート(記号)と比べた際に独自性が見出されることで、業界でアートとして評価されることになる。
90年代以降、日本でも「コミュティ・アート」や「アート・プロジェクト」と呼ばれる営みが出てきて、アートの価値が、アートから派生するまちづくりの価値と混同されることも多い。しかし、ぼくはやはりアートはこの条件を備えるべきだと思う。後述するが、【美的機能】が引き出す「創造力」こそがアートが持つ大きな可能性なので。
(ちなみに、文化経済学の分野では、伝統的に「アートの(正の)外部性」として、アートから派生される価値を、アートそのものの価値と切り分けている。このへんは機会があれば、また後日。)
一方、(1)は(2)と比べると、言葉の姿形(記号表現)よりも、花が咲いている事実(記号内容。意味)の方が感じられる。この働きを【実用的機能】と言う。記号(文章)が、意味を伝える「手段」としての役割を強く担っている。記号そのものの姿形よりも、その外側にある「目的」の達成が際だつ。
文章を書く人(作り手)が、花が咲いている事実をより多くの人(読み手)に伝えなくてはいけない(目的がある)場合、(2)ではなく(1)を選択しなくてはならない。
また、例えば(文化の異なる)英語圏の人たちに、花が咲いている事実を伝えなくてはいけない場合、日本語で書いてもしようがない。かように、言葉が置かれる状況(環境)を踏まえることを、記号論では、【コンテクスト(文脈)】を踏まえるという。同じ言葉でもそれが置かれた文脈で意味が異なる、と考えると分かりやすい。
そして、英語で表記するならば、英語の文法を参照しなくてはならない。読み手には、日本語の「辞書・文法」が知識の中にないからだ。この「辞書・文法」のような約束事・ルールを、記号論では、【コード】と呼ぶ。
つまり、読み手が置かれた【コンテクスト】と読み手の【コード】を想定しながら【実用的機能】を実現する最も的確な表現が求められる行為が「デザイン」である。
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一方、【コンテクスト】によっては、(1)では素通りした読み手が、(2)という表現がなされた故に、花が咲いている事実に気付く場合もある。【美的機能】が、その記号(意味)に目を向けさせるのだ。
ちょっと大げさに言うと、「ハナガサイタ」という新鮮な表現が解釈を誘発し、デザインの目指すべき目的(花が咲いている事実を理解してもらうこと)の達成を導くのだ。適度な【美的機能】を組み込むことが、「デザイン」にとって必要な理由のひとつがそこにある。
同時に、過度な【美的機能】が邪魔をして、読み手の意味の把握や共感を阻害するケースもある。
(3)haNagasaitA
これは明らかに過度。作り手(ぼく)の意気込みくらいしか感じない。
つまり、【コード】や【コンテクスト】を踏まえた際に、伝えるべき意味との「繋がり」あるいは「必然性」が見出される【美的機能】でなくてはならない。デザインにおいては、その【美的機能】が「目的を達成するために必然的かどうか」が重要であり、その「必然性」を何に見出すかが大きなテーマとなる。例えば、まちづくりに置き換えると、その必然性の一部は「地域らしさ」ということになる。
アートは、基本的にここでいう「目的」を携えていなくても成立する。むしろ「目的」を感じさせないところにアートの可能性がある。記号そのものに志向させることで、新たな解釈を迫らせ、受け手の【コード】を変えてしまうことすらある。その時、受け手に発生する力こそが「創造力」である。
アートはよく分かりにくいと言われる。それは(ここで言う外側の)「目的」が感じにくいからだ。何らかの目的があったとしても、記号そのものに対する志向性が強いために「これが目的だよ!」と分かりにくい。さらにその目的を知るために、自身に知識が必要な場合もある。誤解してはいけない。分かりにくいから価値がない訳ではないのだ。
アートの主題は「いかに表現するか」であって「何のために表現するか」ではない。人の既成概念(=【コード】)を変えるためには、少なからず、その記号と対峙する局面を作る必要がある。【美的機能】は、そういう働きを持っているのだ(もちろん他にも働きはある)。
デザインに話を戻す。
【美的機能】の評価は、少なからず流行も関与する。時代で変容するのだ。
業界の流行に依拠した【美的機能】のテクニックしか目を向けないデザイナーは多い。同時にデザイナーにそれしか期待しないクライアントも。その結果、デザインの恩恵を最も得るべきエンドユーザーに対して、与えるべき価値が提供できないことがある。俗に言う「ユーザーの視点(生活者目線)に立っていない」「持続性がない」という状況だ。
この場合は、デザイナーやクライアントにとって必然性がある【美的機能】であっても、エンドユーザーにとって必然性が感じられない【美的機能】を盛り込んでいる、ということになる。
だからといって、それを全て否定するわけにはいかない。デザイナーやクライアントさえも創出される記号のユーザーと位置付けることは可能だからだ。極論すると、全ての人が「生活者」であり同じ地球の一人の住民とも言える。つまり、その時の【コンテクスト】と達成すべき目的を見極めるのが肝要、ということだ。
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もうちょっと深めてみよう。デザインの歴史のお話だ。
例えば、近代のインダストリアル・デザイン(以下、モダンデザイン)の成立は、ウィリアム・モリスが先導したアーツアンドクラフツ運動からドイツ工作連盟、そしてバウハウスへと連なり成立したとされる。
いわば、産業革命が熟して生じたプロダクトに対して「【道具的機能】ばかりじゃだめだよ、【美的機能】も考えなくちゃ」「【美的機能】は付ければいいってもんじゃないだろう。【道具的機能】やユーザーに必然的な【美的機能】にしようよ」のような流れ・議論の末にモダンデザインの基礎が成立していく。
プロダクトの生産プロセスに【美的機能】が導入され、その後、【美的機能】の必然性が煮詰められた結果、モダンデザインが成立した。建築でいうなら、モダニズム(機能主義)の成立である。
誤解されがちだけど、モダニズムは【道具的機能】を追究した営みではない。モノに対して必然性が感じられる【美的機能】を追究した営みである。だからこそ、素材や構造と連関した「美しさ」を表出する。
そういう意味において、モダンデザイン(あるいはモダニズム)は現代においても、そしてこれからもずっと、普遍的なパラダイムである。そのパラダイムを変換させるような「ポストモダン」は、今までも、そしてこれからも、決して出てこないだろう。
もし出てくるとしたら、産業革命以後の西欧中心に見立てられてきた「デザイン」が第三世界を踏まえて解され、【美的機能】の必要性が強く疑問視される際かもしれない。ただし、現代の市場原理主義社会・情報化社会の中でそれが主流になるとは考えにくい。グローバリゼーションが今後も進むと、集団表象の領域はますます曖昧になっていくと、考えられるので。
さて、まちづくりの話。
まちづくりの現場では、なかなか先鋭化した「美しい表現」が出てこない。
これは、作り手が【美的機能】に拠する技術を持ち合わせていない、お金がかけられない、プロセスでの合意形成の困難さがある…等と考えられがちだが、本筋は別のところにある…というか、そうあるべきだろうという、個人的な想いがある。
【美的機能】によって見出される差異は、ますます読み手(受け手)の文化度と教養度の高さを要求する方向に先鋭化していく。この事実に配慮することが、まちづくりにとっては必要不可欠だと考えている。
デザインが、ごく一部の富裕層・知識層のみ対象にする場合や、業界で評価されたいんだったら話は別だ。思う存分【美的機能】を使った方がいい。(決してそれを否定しているわけではない)
しかし、地域文化デザイン(まちづくり)は、『世界の大多数』を構成する教養に恵まれない貧困層や弱者、そして文化に接する機会の少ない人たちにこそ、その力を還元すべき使命を持っていると、考えたい。『お金を持っている大多数』ではなく『世界の大多数』だ。グローバリゼーションの中で、ぼくらができることは山ほどある。ぼくらでも力になれる人たちは、たくさんいるのだ。
まちづくりにおいて、エンドユーザーのポジティブな経験に貢献する【美的機能】は必要だが、(未来も含めて)エンドユーザーが正当な価値を享受できない【美的機能】にこだわる理由は限りなく少ない。
自分自身が当事者(住民とか)である時は別だ。その際は自己充足という文脈で、正当化される。また、エンドユーザーが(自分ではない)デザイナーやアーティストとなる場合もある。その際には、【美的機能】に配慮する必要がある。
この点が、まちづくり特有の現象であり、乗り越えなくてはいけない高いハードルでもある。【美的機能】を俯瞰しながら、複数の記号(メディアや場、モノ)を使って、【美的機能】の強度を変えなくてはいけない。それぞれが「誰(どのコミュニティ)に帰属する、何の価値に重きを置くか」を明確にし、1つの記号で解決しようと無理はせず、複数の記号で担保しようとする姿勢が肝要だ。1つの記号には表現可能なキャパシティがそれぞれある。
厳しい事を言うと、経済学者のほとんどが臨界点のない経済発展を想定しているのと同様に、ほとんどのデザイナーが、限りなく高い(高くありたい)文化度を想定しつつも、誰にでもできるデザインを1つのメディアで実践している。【美的機能】を使わなくても、あなただからこそ救える人はたくさんいるにも関わらず、そういう人には何故か目が向けられない。
まちづくりにおいては、対象とする受け手(コミュニティ)の文化度を見極め、幸福度を向上させるのが一番の目的。その上で決断された【美的機能】の強度を弱めたり、メディアを分けたりする判断は「妥協」とか「許容」とは異なる次元のお話だ。
今後のまちづくりでは少なからず「失われるもの」に対する眼差しが重要になってくる。失われるものをどう看取るのか。失われるものから何を引き継ぎ、次の世代へ渡していくのか。
仕事や生活のために、失われるものに無理にその場だけの光を与えることが、相手にそして地域に幸せをもたらすとは限らないのは自明。それを自覚しながら、光の存在に誰も気付かなくても、それが必然だと思えば、光をともす勇気も必要だ。誰でも、仕事人である前にひとりの人間なのだから。
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という感じで…(強引)、記号論を手がかりにすると、文化現象を変容させる営みとして、5つの形式を整理することができる。
記号論からの切り口、と考えてもらうといい。ぼくは、それを、地域文化デザインの5つの形式としている。この5つが、対象としているコミュニティ内や生産(制作)プロセスの「様々な次元」で入り組むことになる。ので、何かしら解決方法に悩んだら、この形式から(とりあえずは)発想すればいい。
対象とする場の【コンテクスト】と対象とするコミュニティの【コード】を想定し、以下の形式を選択する。
【1】フィジカル・デザイン(一般的に理解されている狭義のデザイン。記号表現を変えるデザイン)
モノを作ること。対象を物理的に変えること。対象の記号表現(姿形)を変えることで記号内容(意味・価値)を変える。例)はながさいた。→ 花が咲いた。あるいはハナガサイタ。と変える。
【2】セマンティック・デザイン(記号表現を変えずに、記号内容(意味)を変えるデザイン)
モノを見立てること。1回目で話をした「風景を見立てる」ことに該当。
【3】メタ・デザイン(記号同士の関係を変えるデザイン)
モノ同士を編集すること。つながり・仕組み・システムを変えること。「言葉」の場合、言葉同士、文章同士の関係に変化をつくること。「家具」の場合、家具の配置を変えたり、とか。
【4】コミュニケーション・デザイン(記号の作り手と受け手の関係を変えるデザイン)
直接的なコミュニケーションも「言葉」や「しぐさ」、「雰囲気」「相貌」といった記号を介していると捉える。「デザインとはコミュニケーションだ」なんて物言いが通用するのは「言葉」を「モノ」に置き換える妥当性があるから。
【5】何もしない。やめる。
無関心であることではない。記号群の「価値」を把握した上で、何もしないことが、目指すべき結果を実現させることがある。あえて他人やエンドユーザーの創造性に委ねたり、対象の自然性を尊重したりすること(公共事業を中止するとか)。まちづくりにおけるチーム・ビルディングやソーシャル・キャピタルの創出には、この視点が特に重要。
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これを読んでくださっている人のうち3人くらいは「あっ」と思ったかもしれない。1、2、3の形式は、ぼくの恩師の恩師でもある中村良夫氏が本で書いていることを拡大解釈したものである。つまり、氏も記号論を『ロジック』として意識しながら形式を提示したはずである。(確認してはいないけど)
「風景のデザイン」から「文化のデザイン」へと拡張すると、4、5という形式も加えていいように思う。ぼくは先人が示唆してくれた理論を実践に繋げていこうと活動を始めた。つまり、ぼくの基本は風景学にある。
以上。4回目に続く。(続けた方がいいのか少々疑問を感じてきたけど…)