もうとっくに履修登録が終わってしまいました。相変わらずだということで…
でも自分の頭を整理する意味でも、講義内容を(マイペースに)ざっと振り返って書いていきます。
(講義を受けてくれた人のことも考えつつ)若干雑に、かつ講義で話していないことも記しますが、了承ください。
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【1回目】風景から考える〜風景と環境の言分けから〜(10/6 終了)
1回目は、95年4月号のSDに寄稿された、仏の美学者アラン・ロジェの論考を素材に「風景と環境の違い」について考えてもらった。ぼくが10年前に活動を始めたのも、風景が環境と異なる事実を思索したことによる。そのぼく自身の思考を一緒に振り返ってもらうことから講義を開始した。
ロジェは、西欧における風景(landscape)とは、そもそも風景画(landschap)が語源であることを指摘する。アーティストが風景画を描くことで「風景」が発見され(風景という見方が提供され)たのであり、それ以前は風景という概念は存在しなかったという。
それまで、「機能的な環境」はあっても「美しい風景」はなかった。美しいとか醜いとか、環境を美的対象として眺め、慈しむ営みは無かったということだ。(中国では5世紀頃に風景に近い概念である「山水」が詩として発見され、日本へ輸入されるが、ここでは詳細は割愛)
つまり、氏の思想に沿うと、風景とは「人間に知覚され、意味を与えられた環境である」と定義できるだろう。
人間の主観が介在する以上、風景の美しさは相対的なものであり、変化し続ける。「環境を保護する」ことはできても「風景を保護する」ことはできない(環境の物理的なカタチは保護できても、人間の解釈の保護はできない。時代性により意味づけも変わってくる、ということ)。
よって、科学的な環境と社会・文化的な風景を混同することは決してしてはいけない。「風景の科学」はあり得ないというわけだ。
ロジェが本稿を通して主張した、主たる部分はそこであった。
また、氏は環境を「風景化」するためには2つの方法があることを指摘する。ひとつめは、対象を物理的に操作するやり方であり、「現場(in situ)」で「芸術化(artialiser)」することだという。そして2つめは、対象そのものを物理的に操作するのではなく、「見方」のみを提供するということ。「見ること(in visu)」で「芸術化」することであると、モンテーニュの言葉を引き合いに出しながら提示する。
もっと今っぽく?解釈すると、風景を変えようと(デザインしようと)思ったら、空間やモノ自体を物理的に変えるだけでなく、空間の「意味」や「価値」を変え、「見方」を提供さえすればよい、ということである。
さらに、本来は地理的性質の風景の成り立ちを文化現象の典型として捉えると、つまり、世の中のあらゆるデザイン行為は、文化を内在した風景を変えることが目的であると捉えると、以上の歴史から得られる示唆は多い。
例えば、今あなたが眺めている風景は、ウェブサイトのグラフィックやぼくがこうして書いている文章のカタチなど、メディアのインターフェースだけでなく、ぼくが嘘をついているかついていないか(意味だけを変える)、も重要になってくる。そして、先日の「とある海」の写真は、ぼくが写真(メディア)という手段を使って、海そのもの(環境)を変えずに、新たに意味を付け加えて提示した(風景を変えた)ことになる。
つまり、デザインの手法として「物理的に操作すること(以下、作ること)」と「物理的に操作せずに、意味だけ変えること(以下、見立てること)」は常に共存している、と言えるのである。
現状は、その双方あるいはどちらか一方を選択するかは、デザイナー自身が持っているスキルに依存している。しかし本来は、目的である解決すべき社会問題や変えるべき風景から、適した手法を選択するべきと言えるのではないだろうか。
教育を見てみよう。
小中学生の時の美術の授業を思い出してもらいたい。絵の描き方(作り方)を教えてもらったと思う。一方、絵の楽しみ方や評価の仕方(見立て方)は教えてもらえただろうか。どちらも、自分とキャンパス(環境)との関係を豊かにする営みのはずなのに、絵として「風景化」される営みのはずなのに、教育は前者に傾倒しているのだ。
デザイン教育も同様である。どのようにモノや空間を作るかのみで、風景の全ての問題を解決しようとしているデザイナーがどれだけ多いだろう。「モノや空間を作らずに」魅力を見立て慈しむのも、作るのと全く同等の価値であるにも関わらず。作るスキルと見立てるスキルの両方を携えることが必然であるにも関わらず。
その弊害は、現代に多々見られる。美術館に足を運ぶ人は限られているし、また、現代美術は「分からないから」と距離を置かれ、その責任をアーティスト(作り手)になすりつける。安いから、使いやすいから、でモノは買われ、愛着は育まれず、安易に捨てられていく。など。
「風景を変える」ではなく、建築家は「建築を作り」土木技術者は「土木構造物を作り」グラフィックデザイナーは「メディアを作る」ことを目的に教育がなされ、職能と位置付けられる理由は、おカネが何かを達成する手段ではなく、おカネを稼ぐこと自体が目的となる様相と、実はそう違わない文化現象である。手段が強く顕在化するために、目的が見えにくくなっているのである。
なぜ「作ること」に傾倒した教育がなされてきたかは、長くなるので詳細は触れない。ひとつだけ。「分かりやすいから」という理由。目に見える最終的な物理的条件(環境の違い。ここでは建築であり、土木構造物であり、メディア)を基準にすることが分かりやすいからだ。しかし、その「分かりやすさ」の有り様は、時代性に強く依存する。
目に見える情報および選択肢が飽和した現代においては、「見えないもの(現象)」で差異化を目指さざるを得なくなる。また、例えば国は、恐ろしいくらいに借金を抱えており、かつ健全な財政の自治体を探す方が難しい。さらに、最もデザインを必要とする人たちは、経済的に恵まれていない(にも関わらず「広告クリエイター」は、お金があるところを目指していく)。市場原理主義社会の中では、デザイナーやユーザー(消費者・生活者)が「文化的な態度で」モノを見立てない限り、伝統的な暮らしや地球環境は持続可能となり得ない。
近年よく聞かれるグリーン・コンシューマーとは、環境に配慮してモノを購入する消費者を意味する。同様に(それはつまり、もうひとつ高い次元で)、今後は、カルチュラル・コンシューマーというべき消費者が求められている。環境は文化(風景)を介してしか認識できないのだから。
現代は多様なフェーズで「作る」より「見立てる」スキルが要求される社会となっている。限られた予算の中で、環境に負荷を与えずに、ユーザー(生活者・消費者)に幸福をもたらす風景を創り出していくこと。自分が差し出すおカネを、購入する「モノ」ではなく、その向こう側の「風景」に関与させること。少なくとも、それらの思索を携えることが要求されている。
つまり、そういう意味で、空間のデザイナーが、メディアのデザインやコミュニケーションのデザインに取り組むのは「専門外」では決してない。空間を作るという目的ではなく、風景を変える(創る)という目的を携えているのであれば、現象(あるいは意味)のデザインに意識が向くのは必然である。その逆も然り。
90年代から聞かれ始めた「モノのデザインからコトのデザインへ(そしてそれを受けて差異化を目指す、だからこその「モノのデザインへ」)」というような文言や、あらゆる分野におけるワークショップの隆盛は、抑えきれない時代要請に適ったムーブメントでもある。その時代要請から自らの知識を拡張して、身体および脳の物理的・生理的限界とのバランスを見出していかなくてはならない。創造性とは、本来、そのぎりぎりのバランスに立ち現れるものではなかろうか。
ぼくが10年前にtriviaを始めた理由のひとつは、以上の背景による。情報が飽和し、選択肢が溢れる社会の中で、最もデザインの効果を必要としている人たちは、時代要請に援護されながらも「ちっぽけに」扱われていくと思えた。目に見えないものが対象とされるだけに。そして、既存のパラダイムを改変する体力が必要とされるだけに。だからといって、それを黙殺する社会に、違和感を覚えたのだ。
2回目に、続く。
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北九州国際ビエンナーレは、15日まで。
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写真は、いないいないばっの「ばっ」をしているつぐみ。平均的に3秒くらいこの姿勢で止まる。
同級生の従姉妹が眼科を開業することになった。熊本にて。その撮影の合間。
いちおう、院内の写真も。もうすぐオープン。市内八王子にあります。