trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

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先週末、熊本へ。こうのとりのゆりかごについて、関係者の話を聞いてきた。その数日前は、同和地区で暮らす人たちや、虐待に係る福祉事業に取り組む人たちから、まちづくりの相談を受けた

様々な立場の人たちと接していると、世の中は曖昧な要素があるからこそ成立しているんだなと、諒解できる。曖昧だからこそ、安寧に暮らせる人たちがいる。そして誰かを誠実に思いやり、曖昧さの中の矛盾を認め、寡黙に生きている人たちがいる。その曖昧さを、偏見と自己顕示欲で突き崩すことはもちろん、安易な正義感で真実を見極めようとする行為が、とても危ういことに、気付く。

ぼくらは、知識を強く欲してしまう時代に生きている。何が真実なのか、非常に判りにくい時代だからだ。

知識をもって市井の真実を見極めようとする性、つまり「知性」とは、ヒトの普遍的な欲求と結びつく。ぼくらは、膨大な情報の波に埋もれながら、情報を疑い、知識を求め、その先の真実をつかみ取りたいと願う。そしてその正義を主張することにこそ「自分」があると信じるのだ。

真実を見極めようとする姿勢は否定できない。しかし真実は、特定の文化から眺めたある一面の「見方」に過ぎない事実を忘れてはいけない。そして、知識を得れば得る程、その先に立ちはだかる見えない壁は巨大になっていく。覚悟なく壁に対峙した時、抱えきれない程の挫折感に覆い尽くされる。その先の、終わりが見えないのだ。

「知性」の限界に気付いたぼくらがとる行動は2通りある。それは、新たな「知性」の地平を求めるか、あるいは「知性」を放棄するか。

正確には、この選択双方に今の「知性」が伴う。その矛盾を抱え込みながら挑戦していくことになる。そして、徹底的な「知性」の放棄がもたらすものは死、である。だからこそ、伝統的な日本の精神において、死は特別な意味を持っていた。限りなく死に近づくことで「自然(ジネン)」と一体化する営みこそが「修行」だった。

つまり「知性」に対する挑戦は、人間と自然との関係にこそある。先日お会いした森田真生さん、左京泰明さん、内山節さんは、いずれもこのテーマに果敢に挑んでいると言っていい。3人に共通していることは「人間は自然である」と諒解していることだ。

正確には、森田さんは新たな「知性」を求め、左京さんは新たな「知性」を支える基盤を作る。そして内山さんは、今の「知性」を放棄する哲学を、これからの暮らしに定着させようと模索する。
そして、まちづくりに携わるぼくらも同じく、この事実を諒解し、挑戦しなければならない。その時に気をつけること。そのひとつは、「知性」で戦い傷つく人たちの存在を、思いやるということだ。

残念ながら、立ちはだかった壁を突き崩すことができる強い人たちはごく僅かである。多くの人たちは、壁の前で立ち尽くすか、あるいは、その挑戦すらせずに(あるいは、できずに)、社会の中へと埋もれてしまう。

現代の格差社会とは、「自分」が「知性」により規定されているからこそ生まれている。特に、「知性」が経済と強く連関する都市部においてそれは顕著となる。その中でぼくらがとるべき態度は、「社会福祉」とのつながりを担保したイエを、コミュニティを、まちを、デザインしていくことである。ぼくらは常に「社会福祉」を携えるべき時代を生きていく。

「知性」との戦いの中で、これから一層、自分自身の「弱さ」に気付くことがあるだろう。その時は、相手の手を柔らかく握り返してやればいい。その感触で、終わりのない戦いに終止符を打ち、次なる一歩を踏み出すのだ。ぼくらはその勇気を、手にしなくてはいけない。

もう一度引用しよう。人生とは、何か計画している時起きてしまう別の出来事の事である。

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夏のひとこま。それにしても猛暑でしたね。

遅ればせながら、「まちの写真屋を考える 報告展」に来て頂いた方々、ありがとうございました。演習としては終了ですが、引き続きぼくは、写真と写真屋について考えていきます。他の場所でも展示を…との有り難い依頼もあるので、その際にはこちらでお知らせをさせて頂きます。

後期の演習は「こうのとりのゆりかご」で見えてきた課題にフォーカスしながら、子ども・赤ちゃん、そしてその親を巡る問題を考えていきます。これは長い時間をかけて取り組んでいく、ぼくの大きな研究テーマになるでしょう。特に先週から、集中的にヒアリングやフィールドワークを重ねています。今週は慈恵病院へ。おいおい報告していきます。

いろいろお知らせです。

9//22。風景デザイン研究会主催で、哲学者・内山節さんの講演会およびパネルディスカッションが開催されます。イベントの詳細はこちら(PDF)。ぼくはパネラーとして出演。申し込みは締め切りました…すいません。おかげさまで満員御礼の様子。(多すぎ…とか)

内山さんの思想は、まちづくりに携わる人は必ずおさえておくべきといえます。日本の伝統的な文化(精神の習慣)を紐解き、未来の共同体の在り方について提示されています。残念ながら参加できなかった方も、内山さんの著書はオススメします。「里」という思想。そして、共同体の基礎理論。

9/23。福岡テンジン大学の開校式。詳細はこちら。
特別授業の1つめは、数学家・森田真生さんと音楽プロデューサの深町健二郎さん。そして2つめがシブヤ大学学長・左京さんとテンジン大学学長・岩永くん。ぼくがコーディネーターで入ります。

当初は参加者200名の予定だったんだけど、さらに人数が増えても大丈夫だそう。すでに200名弱集まっていると思うので、参加希望の方は早めに申し込みをしてくださいね。〆切は22日。参加には学生登録が必須で心苦しいのですが、これを機に登録してみてください。九大の助成がとれましたので、九大と連携した取り組みもしていきます。

同じく9/23。北九州のギャラリーSOAPで「北九州ビエンナーレ2011」のプレイベントが開催されます。詳細はこちら。アーティスト、マイク・ボードとディレクターの古郷卓司さんのトーク。ぼくは上記開校式と重なったので行けませんが、みなさんぜひ。

9/25。福岡市役所にて、九州産業大生と九大生(21世紀プログラム課程の1・2年生)による「学生主体のまちづくり」についての提案会が開催されます。一般参加も受け付けているのかまだよく分からず。もしOKであれば、後日 twitter にてお知らせします。

学生からいろいろと相談を受け、待ち合わせの『待ち時間』を『まち(街)時間』へ…というストーリーを提案しました。携帯端末が普及して、待ち合わせの行動や方法が変化しています。「待ち時間」をもう一度「まち」に取り戻そうという主旨。学生がどのような企画を落とし込んだのか楽しみです。

25日に東京入りし、翌日9/26から9/28まで(ぼくは28日早朝には発つ予定…)は、山梨県清里にて「第3回つなぐ人フォーラム」。以前お知らせしたように、西村佳哲さんと一緒に45分のセッションを担当します。その中では、杖立のお話を中心に。

そしてもう1つ45分のセッションを担当。「こうのとりのゆりかご」をテーマに話をして、参加者の皆さんと共有します。セッションのすべての内容はこちらで紹介されています。

「ゆりかご」は開設から時間が経つにつれて、熊本以外に正確な情報が浸透しづらくなっています。本格的に研究を始めることもあり、今回お話をさせて頂くことにしました。フォーラムの申し込みはまだ受け付けている様子。みなさんと現場で共有できたらうれしいです。

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知人が関わっているものを幾つか紹介。

10/3。福岡市動物園にてワークショップ「チンパンジーの喜ぶ顔が見てみたい」が開催されます。NPO法人「サンクチュアリプロジェクト」の野上さんが中心に進められているもの。

本NPOは、ショーに使われ引退したチンパンジーのための飼育施設をつくること、そして、飼育下に置かれたチンパンジーの福祉向上を目的に活動されているそう。野上さんが紹介された新聞記事はこちら。そして、今回のワークショップの詳細はこちらです。申し込みが9/15までとなっていますが、9/20(今日!)くらいまで大丈夫だそうです。興味のある方はぜひ参加をご検討ください。

9/22〜10/18。イムズにて「本と、読書と、恋愛と。展」が開催されます。同僚の目黒先生と山下さんがプロデュースする企画展。26日には「魔女の宅急便」でお馴染み角野栄子さん。10/6は江國香織さん、メリーゴーランドの増田喜昭さんのトークライブ「本の学校」も開催。みなさまぜひ。

10/3〜11/28。時折一緒にお仕事をさせて頂いている、イラストレーター万野幸美さんの個展「white canvas」が、博多リバレイン地下2F「ギャラリーアートリエ」で開催されます。展覧会のサイトはこちら。10/1発行、LoveFMタイムテーブルの表紙も前回同様、幸美さんにイラストをお願いしました。こちらは九州のカフェ等でもらえると思うので、手にとってくださいませ。

私信。ぼくが留守中に訪ねて来られた琉球大の学生さんへ。もしよければメールをくださいませ。
こちらに。infoアットマークtrivia.gr.jp