trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

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今日は教育学部の講義。こうのとりのゆりかごに類似した海外の事例、パキスタン・インド・アメリカ・南アフリカ・オーストリア・ベルギー・ドイツの例を紹介しながら、話をすすめた。それにしても出席率が高い。んで試験をしないにも関わらず(中には単位にならない人も)主体的。たまたま彼ら彼女らがそうなのか、ぼくが学生の時よりよっぽど意識が高い。ちゃんと自分の言葉で伝えなきゃな、と。

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6月18日(明日)20時より、アルバスにて「『まちの写真屋を考える】公開トーク Vol.2」を開催します。詳細はこちら。今回は、石川さん水崎さん重松さんにゲストに来て頂きます。

事前予約でもうすでにいっぱいみたいです。申し訳ない。立ち見でもいいという人は、アルバスに確認の上、検討してみてくださいね。このブログはアクセス数がそれなりにあるので、人数が制限される場合は特に、早めのお知らせは控えています。了承ください…

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で、なぜこの演習をしているのか、という質問がいくつかあったのでその件について少し書いておきます。

例えば今日の写真。つぐみが誰かを撮ろうとしている。

のように見えて、実はそうではない。(当時)1歳のつぐみが写真を撮れるわけはなく。んで、よく見ると分かるけどカメラが逆さま。液晶画面がこちらを向いている。

つまり、つぐみは写真を撮ろうとしているわけではなく、「撮る人」を想像している。言わずもがな、その相手は目の前でカメラを構えるぼく。カメラを縁に、父親としてのぼくを想像している。

カメラや写真、そして写真屋(ラボ、写真館、カメラ屋 etc)について考えていくと、写真の芸術表現や記録手段としての価値だけでなく、コミュニケーション・メディアとしての魅力が見えてくる。

1枚の写真の周囲には、撮る人と撮られる人、見る人、保存する人、そして写真を介して出逢う人。様々な人たちの在り方が垣間見えるのだ。

どうやって撮ったんだろう、どんな気持ちだろう、見てもらいたい、思い出したい… ぼくらは様々な振る舞いに即して周囲の人や動物やモノたちを「想像」しながら、カメラを携え、写真を撮りアルバムを作り、そして再び開き、語り合い、思いを馳せる。その行為に正解はない。誰に対しても開かれている。少なくとも、今の日本においては。

ヒューレッドパッカードがインドで進めるプログラムに、Mobile Photo Studio (PDF)がある。写真を利用した社会起業システムだ。現地の女性がカメラを手にし、近隣村の家族を撮影していく。家族の記念を残すと同時に、写真家としての自立を支援している。

プロジェクトチームの1人、アン・ウィロウビイはプロジェクトを始めた理由について、こう話す。

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『お宅が燃えているとします』。2日に渡る貧困層の顧客向けデザイン研究会の後、彼女は聴衆の中の女性たちに言った。『家族は無事です。1つだけものを持ち出す時間があります。何を持ち出しますか?』
聴衆の90%は、家族のアルバムやその他の大切な思い出の品と答えた。だが、貧しい村の女性たちのほとんどは、家族の写真や結婚式、子供の誕生といった大切な節目の写真を持っていない。 …<シンシア スミス 著「世界を変えるデザイン」より抜粋>
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アン・ウィロウビイは、先進国の人たちが当たり前のように携えている「写真」すら持てない事実に疑問を感じ、また「写真」こそ携えるべきだと感じ、Mobile Photo Studioを始めることになる。

日本に話を戻す。例えば、先進国に住んでいるあなたは、持ち出すべき「写真」を持っているだろうか。それは、思い出を慈しむ姿と成り得ているだろうか。

日本(先進国)において、写真を撮り、撮られたことのない人がどれだけいるだろう。写真を目にしない日は1日でもあるだろうか。デジタルカメラや携帯端末が普及した現在、写真が身近になったからこそ、考えるべきことがあるのではないだろうか。

フィルムとデジタルのどちらがいいとか、そういう普遍的な解は求めてなくていいだろう。
しかしその一方で、デジタルカメラの普及により確実に変わったことがある。

例えば「ショット数」。シャッターを押す数を業界では「ショット数」というらしい。コンデジや携帯の普及で「ショット数」が膨大に増えた。一方で、プリント数は相対的に減っている。

それに応じて、写真を介したコミュニケーションの形式も変化している。
今は全てがモニタで完結できる。モニタで完結できるということは「朽ちること」が許されないということ。残るか消えるか。0か1か。

不確定な未来の中で(それはつまり「本当に残るかどうか確認できない」ハードディスクやメディアに保存しているという意味で)、0か1かが委ねられている。

ちなみに、つぐみが産まれてから3ヶ月までの写真を、ぼくは持っていない。ハードディスクが壊れたからだ。ぼくは過信していた。もう二度と戻らない時間。色が褪せたとか、破れてしまったとか、そうではなく。0になったのだ。

日々、大量にストックされていく写真たち。例えば本棚の子どもの頃のアルバムをおもむろに覗いていたように、ぼくらは、未来においてもそれらとしっかり対峙できるだろうか。あなたは未来のために、ハードディスクに溜まり続ける写真(時間)を編集する体力を持っているだろうか。

次々に押し寄せる「今」と遠く離れた「少し前」が「想い出」にしっかり寄り添ってくれているだろうか。「撮る」や「見る」という行為の強度が捨象された今、確かに写真は身近になった。しかし例えばそれは、昨日の夕飯のメニューを忘れてしまうような、そんな状況と何が違うのだろう。

写真を介した経験の変容と同時に「写真屋」も激減している。たとえば、フジフィルム系列のミニラボで、昨年開店したのは全国でアルバスだけだ。

自分たちで写真を撮り、家庭の(それなりの)プリンタで出力し、あるいはネットを通じて現像する。デジタルを手にしたぼくらが撮った写真は誰とも「一緒に眺め、選び、語り合う」ことなく、自分の手元に戻ってくることすら可能になった。

ギャラリーや写真展はあるだろう。でも、そこに展示されている写真は、近所の写真屋のショーウィンドウに飾られてあった、お宮参りや七五三や成人式や遺影の写真とは、明らかに違うだろう。いったい、何が違うのだろうか。

基本的に人間は、過去の美的体験に引きずられる。「慣れ」が「今」の美的印象に与える影響はとても大きい。それを十分に承知した上でもなお、気を留めなくてはいけないのは「失われるもの」に対してだ。

「失われるもの」が、社会にとって、まちにとって大切なものであれば、そこに「公共性(つまり、社会全体で支えるべき性質)」を見出し、残していく努力をしていかなくてはならない。努力をしなかったら失われていく。

まちづくりの使命とは、目の前にある明らかに高い「公共性」を操作して、不特定多数の人たちを楽しませたり、安心させたり、ということだけではない。とある現象に対して「公共性」という名の命を吹き込み、価値を見立てていくこと。そして、場合によっては、それを社会やまちで守っていくために、仕組みづくりに取り組まなくてはならない。

新しいものは、概ね勝手に生まれていく。誰もが対峙せざるを得ない「市場」とそれに準じた技術が作ってくれるのだ。それは誰でも考えている。あなたじゃなくても。

一方、時間の短縮を是とする市場原理によって失われるであろうもの。それは、その価値に気付いた人間が「公共性」を見出さない限り、残らない。

今回の演習では、そういうことを考えながら取り組んでいる。あなたが気付かなかったら、勝手に失われていくものがある。失われていいものかもしれない。失われるべきものもあるはずだ。でも、まずは、考えましょうと。考えずになくしてしまうことだけは、避けたい。

以上のことは、もちろん演習の中で学生とともに感じ、学んだことを踏まえている。何よりも、ぼく自身が考える機会を与えてもらっているのだ。

bgm: つぐみ / スピッツ

近々リリースされるスピッツの新曲が「つぐみ」であることを教えてもらった。

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一昨日からアタモの体調がいまいちで、早めに帰宅。鳩山さん関連のニュースを見ようとテレビを付けたら「Mother」というドラマがあっていた。なんかこう、子どもがいる人にとっては見るのがつらいストーリー。

少し見ただけなのでよく分かってないんだけど、親から虐待された女の子を救おうと、担任の先生が誘拐するという内容みたい。途中で、その子に付けられた(新たな)名前がツグミであることに気付いて、より一層つらくなった。ひざの上の「つぐみ」も何故か静かに観てるし。

その子の本名はレナというらしい。虐待の体験から開放するために、新しく名前を付けたのだろう(いや、分かんないんだけど)。と考えると「つぐみ」はいい名前じゃないか! なんて、言い聞かせてみたりもした。

ここを見ている人から「つぐみ」はどんな漢字ですか?と聞かれることが多い。
つぐみは平仮名。以前書いたように、竹富島の慣習からとった名前。

実は産まれる前は「風希(ふうき)」という名前にしようと思っていた(なぜか女の子だと確信していた)。同じく竹富島を舞台にした映画「ニライカナイからの手紙」の主人公(蒼井優)の名前が「風希」だったからだ。風希は、竹富島の風景を受け容れながら育つ、母親想いの子。

父親は、風希が産まれた時にはすでに亡くなっている(あるいは産まれてすぐ?)。でも風希は、父親が使っていたカメラで写真を撮り始め、やがてカメラマンを目指すことになる。

父親との距離感はそれぐらいがいいと思っている。周囲からぼくは早死にすると言われてるから、きっとそうなんだろう。ということは抜きにしても、ぼくが愛用している道具に気付いてくれるだけでいい。でも母親想いで、あってほしい。

そして何より風希が発する台詞「ありがとうね」がよかった。ほんとうに有り難い気がした。だから、風希にしようと思っていた。

んじゃなぜ、風希にしなったかというと、「つぐみ」が閃いたことが大きい。今でも風希はいい名前だなぁと思っている。でも「つぐみ」にすることにした。強くこだわったわけでもないし、どうやって閃いたかも思い出せないけど、つぐみだなぁと、腑に落ちた。

名前は不思議だ。
今となっては、つぐみ以外に考えられない。出てくる時には「あ、つぐみだ」と思った。つぐみも、つぐみであることから生きていく。どんなに「自分らしさ」に迷っても、つぐみという名前が包みこむ在り様は確固としている。そして周囲は、つぐみという名前からつながっていく。

先日。子どもを対象に活動しているNPOの人たちに講演をした際、知らされたことがある。
つい最近、「こうのとりのゆりかご」に預けられた子どもが1人、福岡の乳児院に入所したそうだ。親の住所が分かっている場合、その地域の乳児院(あるいは児童養護施設)に子どもが預けられる。つまり、福岡在住の人が「ゆりかご」に子どもを預けた。

そして、その子には名前がない。

「ゆりかご」に匿名で預けることができる以上、こういうケースは、少なからずあるのだ。

自分の名前が嫌いだという人がいるかもしれない。親に由来を聞いてがっかりした人もいただろう。でも、そんなことすら許されない子どもたちが、このまちで、確かに生きている。

分かるだろうか。名前がないのだ。

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以上が、昨日の講義で話した内容の一部。
「『こうのとりのゆりかご』を見つめて」を少しずつ読み進めながら、学生が感じたこと等を語ってもらい、それに対してぼくがコメントしている。そして、「ゆりかご」が提起した問題について、考えてもらう機会を作っている。

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お知らせ。

6/4(今夜)、アルバス「まちの写真屋を考える」の公開トークVol.1を開催します。学生だけでなく、一般の人とも意見交換をしていこうという主旨。九大で文化人類学を教えてらっしゃる坂元先生にお話をしてもらいます。坂元先生は、先生であるにも関わらず演習に参加したいと言ってくださり、学生のように普通に参加してくださっています。有り難い。ほぼ人数は埋まっているはずなので、来られる方は、必ず事前にアルバスまで連絡してくださいね。

6/18には、福岡在住のカメラマンさん3人をゲストにお迎えし、Vol.2を開催します。もうすぐお知らせをしますのでアルバスホームページをチェックしてくださいね。

6/7、福岡テンジン大学の説明会が開催されます。残念ながらこちらもすでに人数が埋まっています。開校に向けて今後も説明会を続けていくので、参加できなかった方はぜひ次回に参加ください。ブログtwitter(@tenjin_univ)をチェックください。ブログ・twitterともに、学長:岩永が綴っています。

8/19〜22に「紺屋サマースクール2010 ―都市と合宿する4日間―」が開催されます。全体テーマは「まちの余白をつくる」。現在参加者募集中。ぼくは、まちづくりという視点から講義をします。チラシはこちら(PDF)。

以上、最新の情報はtwitter(@localdesign)で。

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まずは、お知らせから。twitterでは書きましたが、5/4と5/5に熊本市現代美術館で、ひびのこづえさんのワークショップ「虫をつくろう」が開催されます。ぜひぜひ参加ください。きっと楽しいはず! (間に合った…)

で、絵本と家具のカーニバル。来て頂いたみなさん、ありがとうございます。5/5まで開催中です。

昨晩はトーク。急遽、第一部として、目黒さん、広松社長、デザイナー渡辺優さんの対談。渡辺さんは、WFシリーズとして、広松木工で子ども向けの家具をデザインされています。例えばこのキッズラビットチェアなど。御年80歳。お目にかかれて光栄でした。本当は、広松木工のデザインを担当されている森さん(ダカフェ森さんのお父さん)も登壇される予定でしたが… 後ろで見守ってらっしゃいました 笑。そして。遊びに来られたマザーハウスの山口絵理子さん(YouTube)も急遽おはなしを。濃厚な日。もちろん目黒さんと角野さんの対談も印象的で。

今回、ぼくの講義の一環で「あの人に贈りたい、大切な一冊」を学生たちに選んでもらいました。このトークを聞いていたら、その理由がなんとなく分かった学生がいるかもしれません。

魔女の宅急便(原作)の中で大切なキーワードを挙げるとしたら「魔法」「贈り物」「働くこと」「生きること」。

たったひとつの魔法「飛ぶこと」しかできないキキは、たったひとつしかできないために、様々な人たちと関わり、助けてもらい、生きていくことができます。もし、何でも魔法で解決できちゃったら、そこに濃厚な、そして自然な、他者との関わりは生まれません。何でもできなくていい。何でもできないからこそ、物語が成立するのです。

そしてキキは、その唯一の魔法で宅急便を始めます。キキの仕事は、誰かから誰かへと、想いの宿った「贈り物」を届けること。キキは魔法で想いを届けてくれる。それはでも、魔法があることが、仕事を成り立たせる絶対条件ではありません。

まず、誰かと誰かがいるということ。そしてその誰かが誰かのことを想っていること。だからこそ、仕事が成り立つのです。目黒さんが指摘したように、「あなたがいること」それが「贈り物」を成り立たせる、最も根源的な条件。その「贈り物」を届けたいと願ったキキは、魔法を仕事とすることができました。自分の「働きかた」を見つけることができたのです。

実は誰でも小さな魔法を持っています。身体はふわりとならなくても、ぼくらは空を飛び、時には地中深くもぐることができます。でも、キキがそうであったように、おとなになっていく過程で、魔法は弱まってしまいます。その時キキは、子どもに戻りました。自分の想いと真摯に対峙した。開き直り、おとなになったつもりになるのではなく。

寝付けない程の驚きや不思議、ひとりでトイレに行けなくなった恐しさ、枕元のほこりっぽい本棚の匂い、母親のひざの暖かみ、背中で感じた父親の寝息… 絵本を手にした時にすっと横ぎるそれらの感情は、魔法の入口なのです。

絵本を見つけて、触れて、開いて、とじて、そして再び元の世界に戻るということは、少なからずそういうことなのです。