trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

バンブー

昨日。フォークスクールにて、えほんのくにの打ち合わせ。賞味6時間…。今後の方向性について、じっくり議論した。
えほんのくには、昨年まで、年に1回(かなり)大きなイベントを開催することで進められてきた。でも今年からその方向性をぐいっと変えたいと思っている。えほん的哲学が、非日常から日常のアウトプットと遷移するように、(ぼくの責任の下で)方向転換をしていくつもり。疑心暗鬼でもいいから?ついてきてほしいと思う。

写真は校庭にて。Kさんによるとバンブーというらしい。人なつっこい。

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気になるニュース:

福岡飲酒事故「危険運転」罪の壁は厚かった(1月9日付・読売社説)

この判決、納得がいかない。そもそも「どれだけ酔っていたか=酔いの度合い」という、曖昧にならざるを得ない判断材料で罪を決すること自体がおかしい。飲んだ量(あるいはアルコールの検出量)に対しての「酔いの度合い」も人ぞれぞれだし、計測のタイミングや回復の個人差でずれも生じる。その不安定さを、危険運転致死傷罪を成立させる際に勘案できなかったのだろうか。

飲酒運転の場合は、「酔いの度合い」を基礎とするのではなく「飲んで運転したこと」それ自体を罰すべきじゃなかろうか。(もちろん、今回の判決で踏まえられた被告の事件後の行為も)
それが、被告の正すべき意識であり、限りなく客観的に判断できる材料だし、何よりも、悲しい事件の再発を防げる方法だろう。

一方、法に合致することの当たり前さ(妥当性)を主張する人たちもいるけど、こんなケースの際には、法を乗り越えてみてもいいとさえ思う。薬害肝炎訴訟もしかり。大方の想像とは異なり、おそらく社会はそう簡単に混乱したりしない。(評論家は騒ぐけど)

そういう事例は個別的な適用例として支持され、あるいは法整備の機運として消化されていくんじゃないかと(もちろんその判断が必然である説得材料を有することが条件)。それほど世間の法の束縛はとても、とても強い。今回は、危険運転致死傷罪の不備を踏まえた上での、(人間としての)判決をしてほしかった。こんな判決なら、法の知識と、それに合致させる論理的思考さえあれば誰でもできるのだ。

法とは、人間としての安寧を、より多くの人たちが享受することを「目的」に作られたものではなかったか。法に合致させることが、その原理にそぐわない場合は、人間の感性を持って対処することが必然である。必然なのだ。
世の中のほとんどの社会問題は、法の未整備だけでなく、「法の構造的限界(加えて、法に対する理由なき信頼)」により「目的」が達成できないことによるものである。

上記リンク先のコラムでは「『国民の法意識は、かつてに比べ相当の厳罰を是認するようになっている』と判決は指摘したが、その通りだろう。」としめている。

ほんとうにそうだろうか?

「国民は、法による判断の限界に気づき始めている」そして「法の不備に対して敏感になってきている」が正確ではなかろうか。その意識が、特に悲惨な事件のケースに世論として顕在化しているに過ぎない。法に介在する構造的矛盾を担保する、人間の感性を盛り込む「客観的な仕組み」が、現代は必要とされているし、これからますます必要となってくると思っている。