trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

さよーならー

日比野さんが金沢21世紀美術館で進めている「「ホーム→アンド←アウェー」方式」プロジェクト。その一環で遊び 取材に来た鯉野さんと藤谷さん。朝顔の種のように、金沢(ホーム)から杖立(アウェー)にやってきた。「旅館とおれんち、どっちに泊まる?」と聞いたら「たきたさんち」と答えた彼女ら。さすが日比野クルー。プロジェクトをしっかり理解してます。。でもつぐみの夜泣きに付き合わせるわけにもいかないので、アタモの実家に泊めさせてもらう。みなさん、お世話になりました。その様子は彼女たちのブログにて。

先月31日は日比野さんの50才の誕生日。近しい人たちで「日比野さんの未来へ贈る言葉 / HIBINO’S FUTURE」と題し、未来の日比野さんへメッセージを送った。去年はさて… と振り返ってみたらこんな感じ。そうそう、徳島だった。みんな元気かなー

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えぇっと、がらにもなく?政治のおはなしを…

今回の福田首相の辞任は「正直なところ」皆さんどう感じられたんでしょうか。ぼくは… がっくりきました。結局こうなるのかと。「他人事(ひとごと)社会」にうんざり。

福田首相に対して、ではないですよ。「無責任」「他人事」「逆ギレ」エトセトラ。首相に対してそんな言葉を投げかけるマスコミ(評論家)はじめ、周囲の政治家もろもろに対してです。(ぼくが言うのも何だけど)福田首相は、実直で優秀な政治家だったと思います。冷戦後まれに見る、国民のことを考えて、それを誠実に行動で示そうとしていた首相だったように思います。

地方自治制(あるいは大統領制)の中では出てきやすいタイプだけど、いわゆる「カリスマ性」といった類で牽引するリーダーがいます。そういう人たちは、リーダー像としての分かりやすさもあり、市民(国民)の支持が得やすい。しかし、福田首相はそういったタイプのリーダーではなく、周囲と協働して力が顕在化する(見える)リーダーだった。チームがばらばらだったら、支持率が低くなるのは当たり前で。

自分ができるところ、できないところを客観的に認識できていて、後者はアウトソーシングする。そういう資質が強みであることは就任した時から明らかで。そして何より、今回のねじれ具合?および公明党との関係は、首相としての、つまりリーダーとしての資質で采配できる範囲を超えていた。

そんな中、(一応)民主主義の手続きを踏んで決まったリーダーにも関わらず、周囲は「氏の資質を知りながら」協力しなかった。国民生活がこんなに危機的状況にも関わらず、できる限りの協働をしなかった。なぜか。それはつまり「他人事」として振る舞っていたから、に他ならない。

政治家もマスコミも(何より官僚も)「本当に」国民のことを考えているなら、そういう氏の強みを活かす方向で協働するはずだろう。(何度も言うけど)国民生活がこんなにも危機的な状況なのに、相も変わらず一部の人間の懐しか肥やさない政治ゲームに奔走し、終わりのない駆け引きに終始する。

つまり、福田首相は「逆ギレ」したんじゃない。そういう営みに対して「キレ」たというならまだ分かる。「あんたたち、ほんとうに国民のこと見てませんね」と。

でも正確には「キレ」てもいない。そんな状況の中でも冷静に、自分の資質を見極めた上での判断を下した。国政において、唯一国民の意思が反映できる場が「国会」。駆け引きオンパレードが予想される臨時国会を召集する前に退陣したのは、何よりも政治家として国民のことを考えている姿勢の現れである。

そして言わずもがな、民主党代表選は群雄割拠の総裁選に煙に巻かれた。つまり、国民のためだけでなく、党首として党員のエネルギーを顕在化させるタイミングを見計らったということだ。

退陣会見においては、「私は自分自身を客観的に見ることができる」とわざわざ自分から言わないといけない状況になった。客観的な眼差しを踏まえた実践と物言いは確かに「他人事」に見えがちだ。しかし政治的手法とごっちゃにしてしまっているのは、あまりに安易。政治的手法の本意を見極めるのが(ぼくらにはできない)マスコミの仕事ではなかったか。

もちろん、マスコミというのは少なからず反権力のドラマを視聴者に期待される。資本主義社会に蔓延した権力との折衷が困難なことも重々承知。でも出演してる面々が「本気で」無責任節を炸裂させてるのだとしたら、重傷だ。そういう「ふり」をしてるんだったら、それこそ他人事。

相手を蹴落として権力を獲得しないと健全な政治ができないという「目指している結果」が、システム上リアリティがあっても、国民生活にどんだけリアリティがなくて、税金と幸せを浪費することか。それをあたかも「国民のこれからのため」のように見せてるんだから、それはもう、詐欺といってもおかしくない。最近マスコミを賑わす「モンスター某」とは、対象に対して他人事に振る舞う輩をいう。つまりマスコミの振る舞いは、自分たちがモンスターであることがバレないように、他を吊し上げているようなものである。

ぼくは自民党を支持しているわけではない。ただ、誠実に生きている人間が評価されない世の中には同意できない。そんな世の中は、何かが絶対におかしい。

単純な「リーダー像」しか描かず(見立てず)、自分の持ちコマのみで完結するゲームに没頭する。既存のシステムの限界が見えているにも関わらず、できる限りの協力もせずにリーダーの責任を過度に要求する。分かりやすい「権力者」を「権力者だから」という理由で安易に非難する。それらこそ他人事社会=モンスターの営みだということに、どれだけの人が気付いているだろうか。

多様な世論と価値観が交錯する中「リーダーさえ変われば」という時代はもうとっくに終わっている。リーダーを目指さず、エンドユーザーを見据えて協働すること。システムに依存せず、リーダーと共に「他人」ではなく「当事者」として振る舞うこと。そして、他人事のスパイラルに巻き込まれずに、相手を思いやること。これからの時代は特に、リーダー周囲のそんな人材が望まれているんじゃなかろうか。それは、政治のおはなしであると同時に、教育のおはなしとも言えるのだ。

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政治といえば。ここ数日、熊本の紙面を賑わす「9.11」の文字(こういう表現をするのはどうかと思うが、それはさておき…)。9月11日、永年の検討課題だった川辺川ダム問題に対して、県知事が事業の是非を表明します。こちら。英断を期待して止みません。