trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

Happy Birthday

とあるショッピングモールでつぐみを抱っこしてたら、下に降りたがる。床におろすと、トコトコと危なっかしく10m以上戻り、何かを拾っている様子。それをぼくに差し出してにっこり。彼女の手には3cm程の小さなヘアピン。抱っこしている間に落とした自分のヘアピンを拾いにいったのだ。昨日で1年。しらずしらずのうちに成長する、彼女の小さな小さな振る舞いは、濃密に心に刻まれる。

SONYのハンディカムのサイトがよくできている。よくできている、というのはぼくらの当たり前の気持ちに忠実なコンテンツだからだ。子どもたちの小さな振る舞いが、小さな幸せの蓄積が、人間としてのぼくらの感性を揺さぶる。

現在、戦火に見舞われている人たちも同じである。違うはずがない。1日1分1秒の子どもたちの振る舞いが、濃密に心に刻まれながら、ぼくらと同じ日常を生きている。わが子が担う未来に思いを馳せながら、励まされながら。時折聞こえる子どもたちの笑い声がうっすらと脳裏を横切りながら。それらがごくごく普通に、日常を構成しているに違いないのだ。

それを脅かす権利は誰にもない。ましてや国家や政治という「システム」に、人間の生を掌る当たり前の権利が脅かされるなんて、あり得ない。あり得ないはずではなかったか。人間の生を肯定するシステムでないなら、いったい国家とは何だろう。政治とは何だろう。

ぼくらはグローバリゼーションのさなかに生きている。体裁としての自由(特権)を獲得した人間は、何かを誤解してしまっている。生の本質は、メインストリームには既にない。ローカルにしかない。足下にしかない。あなたと隣の人との関係、そして同じ営みに一喜一憂する他人への「思いやりの強さ」にしか存在しない。

デザインも同じである。形骸化したメインストリームに憧れている限り、そこにデザインの本質はない。本質は、日本の田舎にあり、世界の田舎にある。目指すべきは決して中央の美意識を前提にした「底上げ」ではない。デザイン哲学が風任せの経済格差を基盤にするなら、そんなものいらない。「あなたじゃなくても」誰かが考える。

「ローカルの営みから得られる幸福感」をメインストリームに染み出させることが、おそらくぼくらの世代に課せられた使命だと思う。

デザインとは、そしてぼくにとっての「まちづくり」とは、個々人の幸福感を注意深く観察しながら、対象コミュニティの幸福度を向上させる所作に他ならない。手段と「見てくれ」は二の次である。というより、手段と「見てくれ」は必然的に決まる。自分の役割も自然と決まる。

その営みが倫理性の伴わない市場経済と共生できるのか、真面目に対峙すればするほど「個の強さ」が要求されるグローバリゼーションの悲劇は、宗教に頼らず解決可能なのか。さらに徹底的に考え、自分なりの実践をしていきたいと思う。遅ればせながらの2009年、ではなく、これから10年の目標。