政治が変わるチャンスを逃したような、そんな気になるニュース。
「東国原氏が政治を変える」というよりも、氏のメッセージを受け入れられるかどうかが試されていたように思う。「人気にこだわりすぎない(ニュース参照)」との表明が、逆に不信感を助長していることに気付いていない点が、恐ろしくもある。
今回、東国原氏が出した条件は理に適っている。氏は、政治家としてやるべきことを実現するには、国政に関与した方がいいと分かっている。出馬すればおそらく当選する。しかし、一議員になったところで、既存の政党システムでは、やるべきことができない。それくらいなら、知事として政策を実践し、国が動くよう努力した方がいい。
つまり氏は、既存の「知事としての可能性を捨てろ」と言うならば、それより高い「実現可能性をください」と、そう言っているに過ぎない。政治家としてやるべきこと、つまり政策を実現させるために、当事者として振る舞っていた。ここでは、氏の国政に対しての知識や実績の不足は問題にならない。ブレイクスルーさえできれば、あとは(知識を持っている)周囲が協働するかどうかにかかっている。
にも関わらず、総裁の地位が欲しいわけではないことを、わざわざ言わなくてはならない現状が、何とも世知辛い。かなりストレスが溜まってるんじゃなかろうか…。
氏の行動に対して、たとえば「なめてる」とか「ジョークだ」とか。そんな言葉を安易に発することができる人たちは、いわゆる「おとな」な人たちだ。残念ながら、そういう人たちが今の社会を変える可能性は、まずない。
有権者に支持されながら強固な制度と戦う力は、「子ども性」とも言える誠実さを寡黙に実践する力と、その性質を許容する理解力にしか宿っていない。前者は、有権者のリアリティに近づく力であり、後者は、それを活かすことができるマネジメント力と言い換えることもできる。
話は変わるが、現代は、サブリーダーが必要な時代のように思える。九大でもリーダーの育成…とか、そういうことを掲げているけど、おそらく優れたリーダーは「育成できない素養」を持っている人たちである。
そのリーダーの本質を理解しながら、チームをマネジメントできるサブリーダー的立ち位置の存在が、必要とされている。リーダーが活かされるかどうかも、サブリーダーの理知的かつ柔軟な振る舞いにかかっている。
話を戻す。
つまり、安易な批判は、本質を理解しようとしていない現れでもある。「子ども性」を「未熟」としてしか捉えることができない構図が、そこにある。
「子ども性」は、「(本来の)タレント=talent」という言葉に含まれている。なぜ有権者が(芸能人という意味での)タレントに惹かれるかというと「知っているから」ではない。「政治家よりも、身近に感じてしまうから」である。
「人気で票集め」なんてフィルターで「タレント」を見立てる限り、有権者のリアリティに近づけない。大切なのは、「タレント」力の強い人材が、知識の理解を要求させず、人々の気持ちを動かしていくという事実のみである。そのベクトルを間違った方向にしていかないために、サブリーダーの力量が、そして政党の力量が、要求される。
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政治ニュースを「かけひきの話」「政策の話」の2つに分けて配信してくれるメディアがあればいい。「支持率を上げようとする話」「支持率が上がる話」、としてもいい。
テレビを一日中付けていたら、おそらく8割は前者のニュース。後者に含まれる、ぼくらの生活に直結する重要法案の実態なんて、自分で探さなきゃ発見できない。政治家の本来の仕事をメディアがなかなか教えてくれない。受け身だと、気付かないうちに勘違いを犯してしまう。
前者ばかり気にする一部の政治家と、その人間模様をドラマティックに見立てるメディアたち。
有権者を甘く見ちゃいけない。後者を分かりやすく提示して欲しい有権者とのミスマッチが、「あきらめ」となり、政治不信のほとんどを規定しているのだから。
がんばっている政治家も、国のために身を削っている官僚も、たくさんいる。その人たちの努力と実力が伝わってこないなんて、あまりにも残酷な情報操作だ。がんばっている人が気持ちよく仕事ができるだけで、どれだけ世の中は変わるだろう。
政治だけではない。現代は、社会の様々な局面で、この情報の送り手と受け手のミスマッチがおきている。「分権」が必要なのは、こういった理由からである。民主主義的社会を保つためではない。情報のマッチングが可能なコミュニケーションの適正規模を保つためである。
情報化時代とはそういう時代。ミスマッチを乗り越えようと一生懸命もがく誠実な人ほど、孤立してしまう悲劇は、いったい何時になったら終わるのだろう。