trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

いないいない…

29日に東京へ。コクヨのショールームで開催された某ミーティングに出席した後、30日に戻り、1日はMDCにて後期の演習の打ち合わせ。昨日、再び東京へ。ナガオカさん・松添さんと打ち合わせをして一泊。さっき福岡に戻ってきた。ほんとは東京のほかのみなさんにも会いたかったんだけど、今回はばたばただったので。また次回。

で、(ほんとに)おくればせながら… 先日の説明会、来てくださった方々ありがとうございました。

予想に反して60人(!)の参加者。このブログを見て来られた方もいて、何と関西・関東からわざわざ来られた方も。在校生も数名来ていて。話される先生の言葉を一所懸命メモる学生を横目に、司会をさせて頂いた。

学生は、想像以上に先生の言葉と行動に耳を傾ける。教員になって、その事実に気付かされることが多々ある。
「あの時先生が言った〜とは、こういうことですか?」とか「先生の行動の意味が分かりました」とか、そういう言葉をかけられることがよくある。その中には「そんなこと言ったっけ?」と思えるものもあり。無自覚な言葉や行動が、学生の琴線に触れることが多い事実を痛感している。

無自覚な言葉や行動がいかに現実を定義づけているか。おそらく「感性」を切り口にするとは、それに気づき、思索し、他人と自分にとっての現実を、繋げていくことだと思う。

たとえば、今あなたが見ているのは、パソコンの画面だけではない。あなたの最も近い位置に鼻の頭がぼやけて在りはしないだろうか。メガネをかけている人は、そのフレームが確かに見えているはずだ。ほおづえをついている人は、手首から肘への連なりも見えるだろう。前髪のちらつきに気づく人も、いるかもしれない。

自分を支配している現実とはそういう危ういものだ。あなたのメガネは確かに在るが、つい先程までは確かになかった。それもあなたにだけ、存在しなかったのだ。

「感性」を学ぶ理由があるとするなら、危うく儚い現実への「気づき」を自覚することに始まり、その「気づき」を受け入れることにある。その結果、他人と、つまり社会と繋がることができる。(かもしれない)

デザインの手がかりは、「気づき」から得られた違和感である。自らの違和感=感性を信じることができると、必然的に、自然と、デザインが生まれてくる。今求められているデザインの「強度」とは、そういうものだと思う。

入試は今月17日。受験生のみなさん、がんばってください。そして一緒に、現実を思索していきましょう。

明日の情熱大陸は、(昔の)ライバル寺本くん。10日のグラン・ジュテは、気づきに正直な愛梨さん。明日はこれも観てほしい。そうそう、明日は北九州国際ビエンナーレの福岡説明会もある。福岡の方は、こちらもぜひ。

写真は、隠れているつもりのつぐみ。子どもが「いないいないばぁ」が好きな理由がなんとなく分かってきた。見つけて欲しいから、隠れるのだ …あ、今Mさんから仲秋の名月詩が届いた。BGMにかえて。

今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ

春さん蛸のぶつ切りをくれえ
それも塩でくれえ
酒はあついのがよい
それから枝豆を一皿

ああ蛸のぶつ切りは臍みたいだ
われら先ず腰かけに坐りなほし
静かに酒をつぐ
枝豆から湯気が立つ

今宵は仲秋名月
初恋を偲ぶ夜
われら万障くりあわせ
よしの屋で独り酒をのむ

井伏鱒二