trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

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年末年始のつぐみは、とりわけパパ病。部屋を(気付かれないように)離れると「パァパァ〜!!(号泣)」。

(お酒のせいだと思いたい。)夜は集中力が続かず、ダウン。朝はつぐみのかかと落としで目が覚める。正月の間に済ませたかった仕事も、読みたかった本も、手が付けられず。

誰かが、何も言わずに離れると子どもは不安になると教えてくれた。なので今朝は「今からお風呂に入るから。いい子だけん待っとって」と肩をギュッとしてみた。すると、たったったっと風呂場まで案内してくれた。おおと感動しながらシャワーをひねると、途端に外から「パァパァ〜!!」の声。ドアを開けると、泣きながら服を脱ごうとする彼女。予想はしてたけど。

子どもを育てるとは、不合理を交感することだと思う。悪意のない理解できないことを受け入れること。どうあがいても逃れられない不合理に立ち会った時、親が<子ども>になる。おそらく子どもが見ている親とは、そんな姿なのだろう。親が自覚している眼差しは、子どもの想い出の中枢にはない。そんな連れ合いだからこその距離感が、掛け替えのない風景へと昇華させる。

2日に、高校の同窓会があった。200人以上が集まり、お世話になった先生方も来てくれた。

ぼくが今の仕事を選んだのも、高校時代に過ごした「橋の下」と出逢ったからだ。課外をさぼって、缶コーヒーと煙草を携えて過ごした「橋の下」。友人たちと他愛のない話を交わし続けた、そんな大切に思える場所を創りたいと思った。(そして、そんなぼくらを見逃してくれた?先生がいてくれたから)

橋はデザインされていても「橋の下」はデザインされていないと気付いてから、ぼくの夢はかなってしまった。出逢った人たちの「橋の下」を探しながら、ぼくはただそれだけに関与し続けたいと思っている。

以前テレビのインタビューで「夢は?」と聞かれて「ありません」と答えたら、見事にカットされていた。地方に元気を取り戻す若者?のようなテーマだったので、無理はないのかもしれない。でも本当にぼくには夢がない。もうすでにかなってしまった。いわば、明日は生きていないかもしれないという、当たり前の事実を自覚しながらその日暮らしをしているような感覚だ。

久しく会した友人・先生たちは、変わらない。気にかけていた人に「また4年後」とかわけわかんない言葉だけしか交わせなかったり。ミゾオチあたりに宿る塊も、いつまで経っても変わらない。

夢を持たないぼくの左斜め後ろには、高校時代に出逢ったみんながいる。そして家族は、ぼくの右斜め前あたりに。

あけましておめでとうございます。

今年もどうか、無防備に。