ぼくの家の前のオブジェはぼくが置いたものではない。背丈ほどに育った草花の種は、風が運んでくれた。プランターに溢れたチューリップは太陽に顔を向け、重力に擡げる。かすれた文字の看板を誰が描いたのか、今では誰も知らない。
背戸屋(路地裏)で目の当たりにする世界は正解を主張しない。理解を強制しない。人間とそれを取り囲む自然のささやかな営みが、やわらかく蓄積されている。時に理解を裏切りながらぼくらの想像力を束縛せず、ぼくらの想像を許容する。そのやわらかさにこそ路地裏たる所以が存在する。
悲しい事件が続く今日、インターネットをふらふら見てふと考えた。ブラウザを通して見える世界に、路地裏はあるのだろうかと。
ぼくらはテレビを代表するマスメディアが必ずしも純粋な情報を提供していないことは知っている。政治的理由、経済的理由を言い訳に、歪曲した情報をあたかも純粋な情報であるかのように発信していることを知っている。そういう事象を見極めるツールとして、インターネットは効力を持つ。
より主体的に(それはつまり想像力を駆使して)ぼくらはインターネットから情報を選別し、それが純粋な情報なのかを判断する。自分にとっての「正解」を見つける作業をインターネットという大海の中で自ら行うことは、とてもとても体力がいることだ。
その膨大な体力の先に見出した情報が、自分の琴線に触れたときには感動する。それはあたかも路地裏を歩いてきたかのように思えるかもしれない。一方、誰かの悲しみを知った時、その悲しみを共有していない人間がとてもとてもたくさん存在する状況に直面する。
どれだけの人が気づいているだろうか。今日の日記とは、今日のぼくではない。パブリックに意図的に放たれた、今日のほんの一瞬を切り取ったぼくであり。どこかに誰かが匿名で描いた文面は、不特定多数が定義した痕跡ではない。それはあなたが知らないどこかの誰かが恣意的に記した痕跡であり。
ブラウザを通して見える世界に路地裏はあるのだろうか。正解ばかりを主張する情報に埋もれたぼくは、時折パソコンの電源を落としたくなる。