trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

光のさす方に

某大学での講演で「ぼくは、人と理解し合えると思わない」と言ったことがある。講演後のアンケートで、とある学生はその言動に対して「田北さんはクールですね」と書いてくれた。「冷たい」ではなく「クール」という言葉を選択したところに学生らしい「思いやり」が感じられるがまぁそれはいいとして。そう思われても仕方ないかなぁと思う。

こう発言した本意は、「自分の正しいと思っている考えを相手に無理に理解させようとすることが、問題を生むことがある」ということである。自分が正しいと思っていても、それは間違っているかもしれない。また、自分の価値観が相手のそれと異なるかもしれない。そういう配慮の基のコミュニケーションを、特にまちづくりの際には忘れてはいけないということだ。

例えば、自分の考えを正しいと思う専門家が、その考えを皆に理解させようとしたとする。また、住民の中から出てきた、正しいと思える意見で合意形成を導こうとしたとする。しかし、工学的側面、経済的側面、環境的側面、文化的側面… 多様な可能性が見え隠れする中において、その正しさを理解できない人たちは、なかなか首をタテにふることができない。

ましてや専門用語で語られても「分かりにくい」で一蹴されることが多い。内容の善し悪しではなく「分からない」と感じられること自体が相手を遠ざける。「分からないこと」は罪ではない。理解をしてもらいたいのに、相手の「分かりにくさ」に気付かないままで、理解を押しつけている方が罪である。

あるいは、その専門家的な振る舞いが鼻につく、という人たちもたまにいる(専門家なのに)。その時点で、その場はまとまらない。特に田舎においては、そして小さい子どもからお年寄りまで相手となる時は、そういう極めて感情的な(一個人としての)キモチが、その場のベクトルを支配する。

ちょっと話が飛ぶようだけど、世の中の戦争のほとんどは、この構造上にある。そもそも「正しさ」の根拠となる価値観が異なるにも関わらず、「おれが正しい」「お前が間違っている」…そのやりとりの末見出される最も安易で安直な手段が戦争である。伸びやかで多様な価値観を、最も愚劣な手段で収束させる。

じゃあ無理に「理解」させようとせずにどう場をまとめるか、そして前に進めるか。その際には「理解」させようとせずに「共感(感動)」させる仕組みに意識的になる必要がある。その方法はここでは書かない。また時間があるときに。

で、この考えは、ぼくの今までの人生経験に依っている。
自分の根拠のない「正しさ」で、他人の人生を左右させる人たちを見てきたし、専門家(業界)の中だけで評価される美意識を押しつけるデザイナーもたくさん見てきた。普通の生活者には理解が極めて困難な局面での腹黒い営みも目の当たりにしてきた。何よりも、自分自身の失敗も教訓となっている。

ぼくは、まちづくりを仕事と割り切っていない。正確には、割り切れない。生活する中で感じた疑問に対する行動が、たまたま仕事として成立してきた部分があり、おそらく今後もそういう風に生きていくんだろう。仕事とプライベートを分けろと言われても、無理。とどのつまりこういう考え方は、ぼくという一個人の処世術=生き方ということになる。そう簡単に変えられるものではない。

でも最近、この頑なな処世術がぐらっと揺るがされる瞬間がある。それはある女性と話した時だ。
その方は、ぼくより二回りは年上だと思う。ぼくのような若輩者を相手に真剣に、本気で語ってくださる。その方はぼくに言う。「人のキモチって、ほんっとうに難しい。ほんっとうに難しいね」と。やさしい微かな声で、身振り手振りで語りかける。そして、自分のこのキモチをどうにか「理解」してもらいたい、そのための自分なりの営みを、淡々と、静かに、誠実に実践している。

この方の人生とぼくの人生。どちらが美しいかと考えると、答えは自明だ。この方と話した後、自分がいかにちっちゃい人間かを思い知らされる。それも清々しく。

昨日、事務所を留守にしていた際にその女性が訪ねて来られた。「たまたま近くに寄ったのでーー」という書き置きと共にシュークリームを3つ、丁寧に玄関に置いてくださっていた。
昼ごはんの代わりにひとつ食べ、おやつにもうひとつ食べようかなと手を伸ばした際に、この方がなぜ「3つ」持ってこられたのかに気付いた。全くもって清々しい。

おむつ…

「おい、おむつ!」のモンスターつぐみ。

18日、おかげさまで7ヶ月になりました。先日はぼくの人間の土地のカバーを食べて読解不能にするなど、母親ゆずり(ということで)のモンスターぶりを発揮中。

6ヶ月くらいからハイハイをし出し、行動範囲もずいぶん広がりました。狭いリビングですが、彼女にとってはきっと大冒険。リビングの端にある、ぼくの足下に辿り着くまで泣きそうになりながらがんばります。

「このまちをぐるぐるまわって、かどからふたつめのちかしつ」を「遠いところ」としたのは、センダック。主人公のマーチンがカウボーイハットとちょびヒゲ姿で挑んだ大冒険。遠いところに行けば、自分の話を聞いてくれる動物たちがいるに違いない。話を聞いてくれないお母さんを横目に考えた。
おとなにとっては決して遠くない。でもマーチンはやっとの思いで辿り着く。自分の思いを叶えてくれる、遠いところに。

長田さんは、詩集「深呼吸の必要」の中で、「ゆくことはできても戻ることができないところ」、それがおとなのぼくらが知っている遠いところだと綴っている。
そして、「遠くにいってはいけないよ」周囲からそう言われないことに気付いたとき、その瞬間に「子どもからおとなになった」んだと。

いつの間にかおとなになったぼくらは、遠いところへなかなか行けなくなった。誰も止めやしないのに。
ぼくの足を無邪気に噛みつく彼女が 痛い 愛らしいと同時に羨ましくもある。