trivial records

trivial recordsは2006年12月〜2011年7月に田北/triviaが綴っていたブログです。
すでに更新していませんが、アーカイブとして公開しています。

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帰り着いたのは0時過ぎ。もちろんつぐみは寝ています。帰った時に動いているつぐみが見れないのは何だかさみしい気もします。手土産のヒモをつまんで「おらおら親父が帰ってきたぞー ひっく」と言いながら酔っぱらい親父が布団を蹴飛ばすシーンがよくあったけどそういう気持ちが分からんでもないです。しないけどね。子どもには自分より必ず長く生きて欲しいと願う気持ちにとても近い。

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先日行われた杖立デザインワークショップについて。
やっとここが更新されましたね。ここもまだ更新されるかと。ここはどうでもいいけど。ワークショップ後、学生のあしあと@mixiがいっぱい付いてたのは感想を期待したからでしょうか。そんなことされるとスルーしたくなったのでしばらくスルーしてみました。

で、感想。各々のプランの善し悪しについては先生方が指摘してくださったのでまぁいいとして。肝が据わってた割にはあり得ない時間超過のプレゼンもまぁいいとして。最終日にぶっ倒れたと思ったらただ単にメシを食ってなかったというオチもまぁいいとして。中間発表やエスキースでの意見を活かしながら、よくあそこまでがんばれたと思います。おつかれさま。

一番印象的だったのは、懇親会の時にJ子さんが「地域に大学があるべきだという意味が、今日はじめて分かった」と言ってくれたこと。20年も考えてきたのに今はじめて分かったと。つまり、それだけで今回の取り組みは評価できるのかなと。20年も分からんかったっつうのはJ子さんだけやろう、という某氏の指摘もありましたが。(一同納得)

以下、乱文ですが学生向けメッセージ兼自分メモ。会期中もちょこちょこ指摘したけど、一番気になった「都市」と「田舎」の違いから。

田舎では「住民自らが取り組める事柄」そして「住民自らが取り組みたいと思う気持ち」を如何に創り出すかが肝要。それは丁寧に図面を描き、理解させるものとは質が違う。プレゼンでは、住民が実感できる「言葉」と「行動」を盛り込むことが大事。それと中・大規模公共事業との接点を見つけるスキルが、今後ますます必要とされる。住民が「あ、それだったら私にもできそう」「面白そうだからやってみたい」と実感できる要素があったとき、まちが変わっていく。それに関わる自分も変わる。結果として、心地いいボルテージで中・大規模公共事業へと繋がる場合もある。日頃から「全てをまちづくりと思え」と言うのは、いわゆる「プレゼン」や「ワークショップ」という形式しか見えていないと、効果的に「言葉」と「行動」を示せる局面を見失うから。(学生の時に)もしこの思想に違和感を感じたら、分業化された都市社会での方法論を前提としていないか確認すること。そして、資本主義の弊害に盲目的になっていないか確認すること。そうそう、少なくとも「エンデの遺言」は必ず心に留めておくこと。本はこちら。

自分の提案が「対象地以外でも通用する事柄」だったとき、その提案を疑うこと。得てしてそういう提案は「大切なモノ・空間」にはなりにくい。そして暗に都市化を目指している。言い換えると「より便利に」「より新しく」という発想がその下敷きにある。つまり「不便」で「古いもの」の価値を引き出し、それを持続・活用していく粘り強く地道なアイディアと行動が、田舎を田舎らしく豊かにしていく。その結果、まちの幸せ感が醸成される。それは都市的な見方からすれば「かっこいい」とは限らない。なぜなら、まちづくりの目的は、消費を促す闇雲な経済成長ではなく、そこに生きる人たちの幸せ感を創り出し、持続させていく所作だから。例えるなら、対象はGDPではなくGNH。GDPの上昇は、自分がやらなくても誰もが目指す。マジョリティがやることは放っておけばいい。田舎には自分しかできないことがたくさんある。これからは、田舎での方法論が都市での方法論へと援用される(べき)時代なので、確信を持って(学生らしく)ハチャメチャやってほしい。嘘をつかずに誠実でありさえすれば、失敗してもきっと誰かが動いてくれる。そして、まちも動いてくれる。(はず)

あぁ目がしぱしぱしてきた。明日は熊本でプレゼン。栄養ドリンク飲んであとひとがんばり。いや、寝よう。